좌흥이 아니다(座興に非ず:ざきょうにあらず) 다자이 오사무(太宰 治) (1939) 일본어 원문 おのれの行く末を思い、ぞっとして、いても立っても居られぬ思いの宵は、その本郷のアパアトから、ステッキずるずるひきずりながら上野公園まで歩いてみる。九月もなかば過ぎた頃のことである。私の白地の浴衣(ゆかた)も、すでに季節はずれの感があって、夕闇の中にわれながら恐しく白く目立つような気がして、いよいよ悲しく、生きているのがいやになる。不忍(しのばず)の池を拭って吹いて来る風は、なまぬるく、どぶ臭く、池の蓮(はす)も、伸び切ったままで腐り、むざんの醜骸をとどめ、ぞろぞろ通る夕涼みの人も間抜け顔して、疲労困憊(こんぱい)の色が深くて、世界の終りを思わせた。 上野の駅まで来てしまった。無数の黒色の旅客が、この東洋一とやらの大停車場に、うようよ、蠢動(しゅんどう)していた。すべて廃残の身の上であ..