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  1. 2018.05.01 안락사 - 일본어
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안락사 (安死術:안사술)

고사카이 후보쿠 (小酒井 不木) (1926)

일본어 원문


 御話の本筋にはいる前に、安死術とは何を意味するかということを一寸申し上げて置こうと思います。といっても、別にむずかしい意味がある訳ではなく、読んで字の如く「安らかに死なせる法」というに過ぎないのでありまして、英語の Euthanasia(ユータネシア) の、いわば訳語であります。「安らかに死なせる法」とは、申すまでもなく、とても助からぬ病気ならば、死に際に病人を無暗(むやみ)に苦しませないで、注射なり、服薬なり、或はその他の方法を講じて、出来るだけ苦痛を少なくし、安楽に死なせることをいうのであります。何でもユータネシアはローマ時代には盛んに行われたものだそうで、トーマス・モーアの「ユートピア」の中にも安死術によって人を死なせることが書かれてあるそうであります。日本に於て安死術について考えた人が古来あったかどうかを私は知りませんが、必要に迫られて安死術を行った医師は決して少なくはなかっただろうと思います。

 さて、私はT医科大学を卒業して二年間、内科教室でB先生の指導を受け、それから郷里なる美濃の山奥のH村で開業することに致しました。元来、都会の空気をあまり好まない私は、是非東京で開業せよという友人たちの勧告を斥けて、気楽な山村生活を始めたのですが、辺鄙(へんぴ)な地方に学士は珍しいというので、かなりに繁昌し、十里も隔った土地から、わざわざ診察を受けに来るものさえあり、私も毎日二里や三里ずつは、馬に乗って往診するのでありました。

 内科の教室に居ました時分から、私は沢山の患者の臨終に出逢って、安死術ということをしみじみ考えたのであります。決して助からぬ運命を持った患者の死に際に、カンフルを始めその他の強心剤を与えて、弱りつつある心臓を無理に興奮せしめ、患者の苦痛を徒(いたず)らに長びかすということは果して当を得た処置ということが出来るであろうか。癌腫(がんしゅ)の患者などの臨終には、むしろモルヒネの大量でも与えて、苦痛を完全に除き、眠るが如く死なせた方が、どれ程、患者に取って功徳になるか知れないではあるまいか。と、考えるのが常でありました。実際、急性腹膜炎などの患者の苦しみ方は、到底見るに堪えぬほど悲惨なものであります。寝台の上を七転八倒して、悲鳴をあげつつもがく有様を見ては、心を鬼にしなければ、強心剤を与えることは出来ません。又、脳膜炎に罹(かか)って意識を失い、疼痛だけを激烈に感ずるらしい患者などは、万が一にすらも恢復する見込は無いのですから、一刻も早く安らかに死なせてやるのが、人道上正しいのでありますまいか。

 そもそも人間が死を怖れる有力な原因は、死ぬときの苦しみ、かの所謂(いわゆる)「断末魔の苦しみ」を怖れるからだろうと私は思います。死際(しにぎわ)の、口にも出せぬ恐しい苦痛が無かったならば、人間はそれ程に死を怖れないだろうと思います。大抵の老人は、口癖に、死ぬ時は卒中か何かで、苦しまずにポッキリ死んで行きたいと申します。死が追々近づいてくるにつれ、死のことを考えるのは当然のことですが、死のことを考えるとき、最も始めに心に浮ぶのは安く死にたいという慾望に外なりません。オーガスタス大帝も、「ユータネシア、ユータネシア」と叫んだそうですが、もしお互に自分が不治の病にかかって、臨終にはげしい苦痛が来たとしたら、恐らくその苦痛を逃れるために死を選ぶにちがいないだろうと思います。まったく、私の経験に徴して見ましても、そういう例には度々遭遇したのであります。多くの場合、家族の人たちが、患者の苦しむのを見るに見かねて、どうせ助からぬ命でしたら、あのように苦しませないで、早くらくに死なせてやって下さいませんかと頼むのですが、時には、患者自身が、早く死なせて下さいと、手を合せて頼むような場合がありました。

 しかし、現今の医師たるものは、法律によって、如何なる場合にも、患者を死なせる手段を講じてはならぬことになっております。即ち、もし安死術を故意に施したならば、相当の刑罰を受けなければなりません。ですから、医師は誰しも、たとい、無闇に苦痛を増すに過ぎないということがわかっていても、とにかく、カンフル注射を試みて、十分間なり二十分間なり余計に生きさせようと努めるのであります。従って、「臨終といえばカンフル注射」というようにいわば無意識的に試みて、患者の苦痛などを問題にしないのが、現今の医師の通弊なのであります。しかし、これは医師が悪いのではなく、むしろ法律が悪いといった方が至当であるかも知れません。こういうと、中には、カンフル注射を試みて奇蹟的に恢復する例もあるから、絶望だと思ってもカンフル注射を試みるのが医師たるものの義務ではないかと反対せらるる方があるかも知れません。しかしながら、それは病気によります。急性肺炎などの場合にはカンフルが奇蹟的に奏効することがありますが、悪性腫瘍にはその種の奇蹟は起りません。しかも悪性腫瘍に限って、苦痛は甚烈なのであります。で、真実にその苦痛を察したならば、到底、不関焉(かんせずえん)の態度を取り得ない筈であります。欧米各国では、医学上の研究に用いられる実験動物が無暗(むやみ)に苦痛を受けるのは見るに忍びないというので、所謂(いわゆる)生体解剖反対運動が盛んに行われているぐらいでありまして、ことに英国では、事情の許す限り、動物に施す手術は、麻酔状態で行わねばならぬことになっているそうですが、動物の苦痛ですらこのように問題になるくらいですから、いわんや人間の苦痛に就て、ことに医師たるものが、甚深の注意を払わねばならぬのは、当然のことであります。元来、医術は病苦即ち病気の時の苦痛を除くのが、その目的の一つでありますから、安死術はすべからく、医師によって研究せられ、実施さるべきものである。と私は考えたのであります。

 けれども、内科教室に厄介になっている間、私は一度も安死術を施そうとはしませんでした。法律にそむく行為を敢てして、もし見つかった場合に、私一人ならばとにかく、B先生はじめ、教室全体に迷惑をかけては相済まんと思ったからであります。それ故、不本意ながらも、他の人々の行うとおりに、心を鬼にしながら、多くの患者に無意味な苦痛を与えたのであります。そうして、かようなことが度重なるにつれ、一日も早く都会を去って、自分の良心の命ずるままに、自由に活動の出来る身になりたいものだと思うようになりました。ことに郷里には、母が一人、私の帰るのを寂しく待っていてくれましたので、二年と定(き)めた月日が随分待遠しく感ぜられました。

 いよいよ、郷里の山奥に帰って開業するなり、私は多くの患者に向って、ひそかに安死術を試みました。殆どすべての場合に私はモルヒネの大量を用いましたが、先刻まで非常に苦しみ喘いでいた患者は、注射によって、程なく、すやすやと眠り、そのまま所謂大往生を遂げるのでありました。勿論、私は家族の人々に向って、患者の恢復の絶望である旨を告げ、でも、出来得る限り、苦痛を少なくして、一刻でも余計に生かす方法を講ずるのであるといって、モルヒネを注射したのでありますが、患者がいかにも、安楽な表情をして眠ったまま死んで行く姿を見ると、家族の人々は口を揃えて、患者の臨終が楽であったのは、せめてもの慰めになると言うのでありました。妙なもので、そうしたことが度重なると、「あの先生にかかると、誠に楽な往生が出来る」という評判が立ち、却って玄関が賑かになると云う有様になって参りました。西洋の諺(ことわざ)に「藪医は殺し、名医は死なせる」とありますが、なるほど安らかに死なせさえすれば名医にはなれるものだと、つくづく感じたことであります。これは実に皮肉な現象でありまして、病人を生かしてこそ名医であるべきだのに、死なせて名医となっては、甚だ擽(くすぐ)ったい感じが致しますが、この辺が世間の心理の測り知るべからざる所だろうと悟りました。

 さて、そういう評判が立って見ると、決して患者を苦しませてはならぬと思うものですから、一層しばしば安死術を行うことになりました。しかし、私自身の家族のものにも、安死術を行うことは絶対に秘密にしておりましたので、何の支障もなく、凡(およ)そ九年ばかり無事に暮して来ましたが、とうとうある日、ある事件のために、安死術を行うべきであるという私の主義が破られたばかりか、医業すらも廃(や)めてしまうようなことになりました。何? 私の安死術が発見された為にですって? いいえ、そうではありません。まあ、しまいまで、ゆっくり聞いて下さい。

 その事件を述べる前に、一応、私の家族について申し上げなければなりません。郷里で開業すると同時に私は同じ村の遠縁に当る家から妻を迎え、翌年義夫(よしお)という男児を挙げましたが、不幸にして妻は、義夫を生んでから一年ほど後に、腸窒扶斯(チブス)に罹(かか)って死にました。え? その時にも安死術を行ったのですって? いいえ、腸窒扶斯の重いのでして、意識が溷濁(こんだく)しておりましたから妻は何の苦痛もなく死んで行きました。妻の死後、母が代って義夫を育ててくれましたので、私は後妻を迎えないで暮しましたが、義夫が七歳になった春、老母は卒中で斃れ、その後間もなく、私は不自由を感じて、人に勧められるままに郷里に近いO市から後妻を迎えたのであります。自分の子を褒めるのも変ですが、義夫は非常に怜悧な性質でしたから、継母の手にかけて、彼の心に暗い陰影を生ぜしめてはならぬと、心配致しましたが、幸に後妻は義夫を心から可愛がり、義夫も真実の母の如く慕いましたので、凡そ一年間というものは、私たちは非常に楽しい平和な月日を送ったのであります。私たち三人の外には、看護婦と女中と、馬の守(もり)をする下男とが住んでおりましたが、いずれも気立のよい人間ばかりで、一家には、いわばあかるい太陽(ひ)が照り輝いておりました。

 ところが、そのあかるい家庭に、急にいたましい風雨が襲って来たのであります。それは何であるかと申しますと、妻即ち後妻の性質ががらりと変ったことであります。彼女は先ず非常に嫉妬深くなりました。私が看護婦や女中と、少しでも長話しをしていると、私を始め彼女たちに向って、露骨に当り散らすのでありました。次に、義夫に対して、非常につらく当るようになりました。少しの過失に対しても、はげしい雷を落しました。私は、多分、妊娠のために生じた一時的の心情の変化だろうと思い、そのうちには平静に帰る時期もあるにちがいないと、出来得る限り我慢しておりましたが、妻のヒステリックな行動は日毎に募り、遂には義夫に向って、「お前見たような横着(おうちゃく)な児は死んでしまうがよい」とさえ言うようになりました。しかし、義夫は非常に従順でありまして、はたで見ていてもいじらしい程、母親の機嫌を取りました。女中や下男が義夫に同情して、義夫をかばうようにしますと、それがまた却って妻の怒りを買い、後には、大した理由もなく義夫を打擲(ちょうちゃく)するようになりました。私も困ったことが出来たと思い色々考えて見ましたが、恐らく分娩までの辛抱だろうと思って、義夫に向って、それとなく言い含め、お母さんが、どんな無理を言っても、必ず「堪忍して下さい」とあやまるように命じましたので、義夫は、私の言い附けをよく守って、子供心にも、かなりの気苦労をするのでありました。幸いにその頃、義夫は小学校へ通うようになりましたので、妻と離れている時間が出来、義夫にとってはむしろ好都合でありました。

 学校は私の家から五町ほど隔ったところにありますが、途中に十丈ほどの険阻な断崖(がけ)がありますから、入学して一ヶ月ほどは女中のお清(せい)に送り迎えさせましたが、後には義夫一人で往復するようになりました。私が夕方、往診から帰ると、馬蹄の音をきいて、義夫は嬉しそうに門(かど)まで出迎えてくれます。その無邪気な顔を見るにつけても、妻の無情を思い比べて悲しい気持にならずにはおられませんでした。

 ある日のことです。それは梅雨(つゆ)時の、陰鬱な曇り日でありました。「どんよりと曇れる空を見て居しに人を殺したくなりにけるかな」と啄木の歌ったような、いやに重くるしい気分を誘う日でして、山々に垂れかかった厚い黒雲が、悪魔の吐き出した毒気かと思はれ、一種の不気味さが空気一ぱいに漂っておりました。その日も私は、かなり遠くまで往診して午後五時頃非常に疲れて帰って来ると、いつも門まで迎えに出る義夫の姿が見えませんので、どうしたのかと不審に思いながらも、下男が昨日から、母親の病気見舞のために実家へ行って留守だったので、自分で馬を廐(うまや)につなぎ、それから家の中にはいると妻は走り出て来て、ぷんぷん怒って言いました。

「あなた、義夫は横着じゃありませんか、遊びに行ったきり、まだ帰りませんよ」

「どうしたのだろう、学校に用事でも出来たのでないかしら」

 学校に用事のある訳はないと知りながらも、なるべく、妻を怒らすまいと、土間に立ったまま私はやさしく申しました。

「そんなことがあるものですか。わたしの顔を見ともないから、わざと遅く帰るつもりなんですよ」

 めったに遊びに行くことのない子でしたから、私の内心は言うに言われぬ不安を覚えましたが、妻の機嫌を損じては悪いと思いましたから、「お清にでも、その辺へ見にやってくれないか」と申しました。

「お清は加藤と使いに出て居(お)りませんよ」と、にべもない返事です。加藤というのは看護婦の名です。

 その時、門の方に、大勢の人声がしましたので、私は怖しい予感のために、はっと立ちすくみながら、思わず妻と顔を見合せました。妻の眼は火のように輝きました。

「先生、坊ちゃんが……」

 戸外に走り出るなり、私の顔を見て、村の男が叫びました。泥にまみれた学校服の義夫が、戸板に載せられて、四五人の村人に運ばれて来たのです。

「……可哀相に、崖の下へ落ちていたんですよ。まだ息はあるようだから、早く手当を……」

 それから私がどういう行動を取ったかは、今、はっきり思い出すことが出来ません。とにかく、数分の後、義夫は診察室の一隅にあるベッドの上に仰向きに寝かされ、枕頭(まくらもと)に私と妻とが立って創口(きずぐち)を検査しました。村人の帰った後のこととて、あたりは森(しん)として、カチカチという時計の音が胸を抉(えぐ)るように響き渡りました。義夫は俯向(うつむ)きに崖下の岩にぶつかったと見え、右胸前部の肋骨が三四本折れ、拳を二つ重ねた程の大さの、血に塗れた凹みが出来ておりました。義夫は眼をかたくつぶったまま、極めて浅い呼吸を続けておりました。脈搏は殆ど触れかねるくらいでしたが、でも、聴診すると、心臓は明かに鼓動を繰返しておりました。

 私は、機械のように立ち上り、中央のガラス製のテーブルの上に置かれた、強心剤即ちカンフルの罎と注射器とを取り上げました。「あなた、何をなさる? 義夫を苦しめるつもり?」と妻は声顫わせて私を遮りました。

 恐らく私はその時一寸躊躇したことでしょう。又恐らく私の理性は、平素、安死術を主張しながら我子の苦痛に対しては同情しないのかと、私の耳許で囁いたことでしょう。しかし、いずれにしても、私の十年来の主義はその瞬間に微塵に砕かれました。人間には、理性による行為の外に反射的の行為があります。今、その反射的行為は、理窟を考えている余裕をさえ私に与えませんでした。

 私は妻を押し退けて、義夫の腕に三筒注射しました。妻は頻(しき)りに何とか言っていた様子でしたがその言葉は少しも私の耳にはいりませんでした。見る見るうちに、義夫の唇の色は紫から紅(あか)に移り変って行きました。「しめたッ」と私は心の中で叫びました。第四筒を注射すると、義夫はぱっちり眼をあきました。

「義夫、わかるか?」と、私はのぞき込んでたずねました。

 彼は軽くうなずきました。私の眼からはらはらと涙がこぼれました。すると義夫は口をもがもが動かしかけました。多分何か言おうとするのです。

 突然、妻はその右の手をのばして、あたかも窒息させようと思うかのように、義夫の口と鼻とを蔽いながら強く押しつけました。

「何をするッ 」と、私は力任せに妻の肩をつかんで後ろへ引き退けると、その拍子に妻はどたりと尻餅をつき、ガラス製のテーブルを引っくりかえしました。硝子(ガラス)の割れるはげしい雑音は、義夫をも驚かしたらしく、彼は軽く唸りながら、物を言いかけました。私は、世の中のあらゆることを忘れ、全精神を集注して、彼の口許を見つめました。

「……お母さん……堪忍して下さい。……お母さんに突き落されたとき……僕、すぐ、死ねばよかった……」

 がんと脳天を斧で打たれた程の激動を私は覚えました。あたりが急に暗くなり、気が遠くなりました。しかし、私は義夫の口から出る臨終の血の泡をかすかに見ました。そうして、背後(うしろ)で発せられた妻の発狂した声をかすかに聞きました。

「オホホホホ、だから、強心剤などつかってはいけないというのに……オホホホホ」

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Posted by 문학관 관리인 위어조자(謂語助者)

안락사(安死術:안사술)

고사카이 후보쿠 (小酒井 不木) (1926)

번역 : 홍성필


이야기 본론에 들어가기 전에 안사술(安死術)이 무슨 뜻인지를 잠시 말씀드리려고 합니다. 그렇다고 어려운 뜻이 아니라 문자 그대로 “안락하게 죽도록 하는 방법”에 지나지 않으며, 영어에서 Euthanasia을 번역한 것입니다. “안락하게 죽도록 하는 방법”이란 두말 할 필요 없이 도저히 회복할 수 없는 질병이라면 죽는 과정에 있어서 환자를 불필요하게 괴롭히지 않고 주사나 약 또는 그 외의 방법으로 가급적 고통을 줄이고 안락하게 사망에 이르도록 하는 것입니다. 들은 바에 의하면 ‘유서네이지어’는 로마 시대에 빈번하게 행해졌다고 하며, 토마스 모어가 쓴 ‘유토피아’ 중에서도 안사술을 통해 사람을 죽이는 이야기가 적혀있다고 합니다. 일본에서 안락사를 생각해낸 사람이 옛날에 있었는지 저는 모르겠습니다만, 절박한 상황에 처하게 되어 안락사를 행한 의사는 절대 적지 않았을 것이라고 생각합니다.

저는 T의과대학을 졸업하고 2년 동안 내과교실에서 B선생님으로부터 지도를 받았으며, 그 후 고향인 미노(美農) 지방 산속 H마을에서 개업하기로 했습니다. 본래 도시 공기를 별로 좋아하지 않은 저는 꼭 도쿄(東京)에서 개업하라는 친구들의 권고를 뿌리치고 마음 편한 농촌생활을 시작했는데, 이런 변방에서는 대학 나온 사람도 보기 드물다고 하여 상당히 번성하고, 100리나 떨어진 곳에서 일부러 진찰을 받으러 오는 일조차도 있었으며, 저도 매일 20~30리씩은 말을 타고 왕진했습니다.

내과 교실에 있던 시절부터 저는 많은 환자의 임종을 지켜보며 안락사라는 것을 깊이 생각했습니다. 절대 회생할 수 없는 운명을 지닌 환자의 죽음에 있어서 캠퍼(Camphor:장뇌 - 역자 주)를 비롯하여 기타 강심제를 투여하고는 쇠약해가는 심장을 억지로 흥분시켜 환자의 고통을 부질없이 늘리는 일이 과연 타당한 조치라고 할 수 있을까. 암 환자들의 임종에 있어서는 오히려 모르핀이라도 대량으로 투여해서 고통을 완전히 제거하고 잠이 들듯이 운명하게 하는 쪽이 얼마나 환자에게 있어서 도움이 되는지 모른다고 항상 생각해왔습니다. 실제로 급성복막염 등에 걸렸을 때 환자가 괴로워하는 모습은 도저히 눈 뜨고 볼 수 없을 정도로 비참합니다. 침대 위에서 데굴데굴 구르며 비명을 지르면서 몸부림치는 모습을 보면 여간 마음을 독하게 먹지 않고서야 강심제를 투여할 수 없습니다. 또한 뇌막염에 걸려 의식을 잃고 그저 통증만을 느끼는 것처럼 보이는 환자는 만에 하나도 회복할 수 없으므로 조금이라도 더 빨리 운명하도록 하는 것이 도의적으로 옳은 게 아닐까 합니다.

본래 인간이 사망을 두려워하는 가장 큰 원인은 운명할 때의 고통, 이른바 ‘단말마(斷末魔)의 고통’을 두려워하기 때문이라고 저는 생각합니다. 운명하기 직전에 말로 표현할 수 없는 극심한 고통이 없다면 인간은 그다지 죽음을 두려워하지 않을 것이라고 생각합니다. 대부분 노인들은 입버릇처럼 죽을 때는 예컨대 뇌졸중처럼 괴로워하지 않고 곧바로 운명하고 싶다는 말씀을 합니다. 죽음이 점점 다가옴에 따라 죽음을 생각하는 것은 당연하겠으나, 죽음을 생각할 때 가장 먼저 생각나는 것은 편하게 운명하고 싶다는 욕망 바로 그것입니다. 아우구스티누스 대제(大帝)도 “유서네이지어, 유서네이지어”라고 소리쳤다고 하는데, 만약 자신이 불치의 병에 걸려 임종할 때 극심한 고통을 느꼈다면 아마도 그 고통을 피하기 위해 분명 죽음을 선택하리라고 생각합니다. 대부분의 경우 가족들이 환자의 고통을 보다 못해 어차피 살지 못할 목숨이라면 저토록 괴롭게 하지 말고 어서 편하게 운명하도록 해주지 않겠느냐고 부탁하는데, 때로는 환자 자신이 어서 죽게 해달라고 간곡히 부탁하는 경우도 있었습니다.

그러나 요즘 의사들은 법률에 의해 어떠한 경우에는 환자를 죽이도록 하는 수단을 강구하지 못하도록 되어 있습니다. 즉, 만약 안락사를 고의로 시술했다면 상당한 형벌을 받아야 합니다. 그러므로 의사들은 누구나 아무리 부질없이 고통을 늘리기만 한다는 사실을 알고 있으면서도 무조건 캠퍼 주사를 시도하고, 10분이건 20분이건 더 오래 살게 하려고 노력합니다. 따라서 “임종 때에는 컴퍼 주사”라는 말과 같이, 말하자면 의식적으로 시도하여, 환자의 고통 따위는 문제 삼지 않는 것이 요즘 의사들의 행태입니다. 이렇게 말하면 그 중에는 캠퍼 주사를 투여하여 기적적으로 회복하는 경우도 있으므로 절망적이라고 생각해도 캠퍼 주사로 시도해보는 것이 의사로서의 의무가 아닌가 하며 반대하시는 분이 계실지도 모르겠습니다. 하지만 그것은 질병에 따라 다릅니다. 급성폐렴 등과 같은 경우에는 캠퍼가 기적적으로 효능을 발휘할 수 있으나 악성종양에서는 그와 같은 기적이 일어나지는 않습니다. 더구나 악성종양은 유독 고통이 심합니다. 그러므로 정말 그 고통을 이해한다면 도저히 모르는 척 할 수는 없는 노릇입니다. 미국이나 유럽 각국에서는 의학상 연구에 사용되는 실험동물이 함부로 고통 받는 것이 불쌍하다고 하여, 이른바 생체해부 반대운동이 빈번하게 일어난다고 할 정도이며, 특히 영국에서는 가능한 한 동물에 하는 수술은 마취상태에서 해야 한다고 되어 있는데, 동물이 느끼는 고통에서조차 이처럼 문제시 될 정도이니, 하물며 인간의 고통에 있어서 더구나 의사인 자가 보다 사려 깊이 행동해야 하는 것은 당연한 일입니다. 본래 의술은 고통 즉 질병에 걸렸을 때 고통을 제거하는 것이 그 목적 중 하나이므로 안락사야말로 의사에 의해 연구되고 시행되어야 한다고 저는 생각한 것입니다.

그러나 내과교실에서 근무하고 있는 동안 저는 한 번도 안락사를 시도한 적이 없었습니다. 법률에 위반하는 행위를 했다가 만약 탄로가 나면 저 하나뿐만이 아니라 B선생님을 비롯하여 교실 전체에 민폐를 끼치게 된다면 곤란해진다고 생각했기 때문입니다. 그러므로 불합리하지만 다른 사람들이 하는 대로 마음을 독하게 먹고 많은 환자들에게 무의미한 고통을 주었던 것입니다. 그리고 그와 같은 일이 되풀이될 때마다 하루라도 빨리 도시에서 떠나 자신의 양심이 명하는 대로 자유롭게 활동할 수 있게 되기를 바랐습니다. 특히 고향에는 어머니가 홀로 제가 돌아가는 것을 쓸쓸히 기다리고 계셨기에 2년이라는 규정된 시간이 매우 길게 느껴졌습니다.

드디어 고향 산속으로 돌아가 개업하자마자 저는 많은 환자들에게 비밀리에 안락사를 시도했습니다. 거의 대부분의 경우에 저는 모르핀을 대량으로 사용했으나, 조금 전까지 매우 괴로워하며 몸부림을 치던 환자는 주사에 의해 얼마 지나지 않아 깊이 잠들고는 그대로 임종을 맞았습니다. 물론 저는 가족들에게 환자의 회복이 절망적이라는 사실을 알리고, 그래도 가급적 고통을 줄여서 조금이라도 더 사는 방법을 강구한다고 하며 모르핀을 주사했으나, 환자가 너무나도 편안한 표정을 지으며 잠든 채로 운명하는 모습을 지켜보자 가족들은 입을 모아 환자가 임종할 때 편했다는 점이 그나마 위로가 된다고 말라곤 했습니다. 이상하게도 그런 일이 되풀이되면 “저 선생님이 진찰하면 매우 편안하게 임종할 수 있다”는 소문이 나서, 오히려 문전성시를 이루게 되었습니다. 서양 속답에 “돌팔이는 죽이고 명의는 죽게 한다”는 말이 있으나, 역시 편안하게 죽게 하면 명의가 된다고 생각했습니다. 이는 매우 아이러니한 현상인데 환자를 살려야 명의이어야 하지만, 죽게 해서 명의라는 소리를 들으니 매우 민망한 감도 있으나, 바로 이런 점이 예측할 수 없는 사람들의 심리라는 것을 깨달았습니다.

그런데 이런 소문이 나자 절대로 환자를 괴롭히지 않도록 해야 하므로, 더욱 자주 안락사를 시행하게 되었습니다. 그러나 제 가족들에게도 안락사를 시킨다는 점은 절대 비밀이었으므로 아무런 지장 없이 약 9년 동안 무사히 지내왔으나, 결국 어느 날 어떤 사건 때문에 안락사에 대한 필요성을 인정한 제 생각이 깨졌을 뿐만 아니라, 의료업조차도 그만 두게 되었습니다. 네? 제 안락사가 탄로 났냐고요? 아니요. 그렇지 않습니다. 아무튼 끝까지 천천히 들어보세요.

그 사건을 말씀드리기 전에 일단 제 가족에 대해 설명을 해 드려야합니다. 고향에서 개업함과 동시에 저는 같은 마을에 사는 먼 친척인 가정으로부터 아내를 맞이하고, 이듬해에 요시오<義夫)라는 아들을 낳았습니다만, 불행하게도 아내는 요시오를 낳고 1년 정도 후에 장티푸스에 걸려 세상을 떠났습니다. 아니요. 장티푸스 말기라서 의식이 혼미했기에 아내는 아무런 고통 없이 운명했습니다. 아내가 세상을 떠난 뒤에는 어머니가 대신 요시오를 길러주었으므로 저는 재혼을 하지 않고 지냈습니다만, 요시오가 일곱 살이 되던 해에 어머니가 뇌졸중으로 쓰러지고, 그러자 바로 저는 여러 모로 불편해져서 주변 사람들이 권해주는 대로 고향에서 가까운 O시에 살던 여인과 재혼을 했습니다. 자기 자식을 칭찬하면 팔불출이라고 하나 요시오는 매우 영리한 아이였기에 계모 손에서 자랐다가 그의 마음에 어두운 그림자가 생길까 하고 걱정했으나, 다행이 제 후처는 요시오를 진심으로 귀여워했으며 요시오도 친어머니처럼 따랐기 때문에 1년 정도 저희는 매우 즐겁고 평화로운 세월을 보냈습니다. 저희 셋 외에는 간호사와 가정부, 말을 지키는 마부가 살고 있었는데 모두 성격이 좋고 부지런한 사람들뿐이어서 저희 집안은 이른바 밝고 맑은 빛으로 가득 차 있었습니다.

그런데 이런 밝고 맑은 가정에 갑자기 비바람이 몰아쳐왔습니다. 무슨 일인가 하니, 아내, 즉 후처 성격이 돌변한 것입니다. 그녀는 우선 매우 질투심이 많아졌습니다. 제가 간호사나 가정부한테 조금 긴 시간 대화를 나누면 저를 비롯하여 그녀들한테까지 노골적으로 신경질을 내는 것입니다. 다음으로 요시오를 매우 괴롭히기 시작했습니다. 사소한 잘못에 대해서도 크게 꾸중을 냈습니다. 저는 아마도 임신 때문에 발생한 일시적인 심경 변화라고 생각하고, 점차 본래대로 돌아오는 시기가 분명 있을 것이라고 믿으며 가급적 참고 있었으나 아내의 신경질적인 행동은 날이 갈수록 격화되고, 결국에는 요시오한테 “너 같이 게으른 놈은 죽어버려라”는 말까지 하기에 이르렀습니다. 그러나 요시오는 매우 착했으며 곁에서 지켜보더라도 가엾을 정도로 어머니 비위를 맞췄습니다. 가정부나 마부가 요시오에게 동정하여 감싸주려 하면 그것이 오히려 아내의 분노를 사서, 나중에는 대수롭지도 않은 이유로 요시오를 구타하게 되었습니다. 저도 고민스러워 이것저것 생각해보았으나, 분만할 때까지 참기로 하고 요시오한테도 좋은 말로 타이르며, 어머니가 어떤 억지를 부리더라도 꼭 “제가 잘못했습니다”하고 사과하도록 가르쳤기에 요시오는 제 말을 잘 들어, 어린 마음에도 상당한 마음고생을 했습니다. 다행이 그 무렵 요시오는 초등학교에 다니고 있었기에 아내와 떨어져 있는 시간이 생겼으므로 요시오한테는 오히려 다행스러운 일이었습니다.

학교는 저희 집에서 500미터 정도 떨어진 곳에 있었는데, 도중에 30미터 정도 되는 높은 절벽이 있어, 입학하고 나서 한 달 정도는 가정부인 오세이(お清)와 함께 다녔으나 후에는 요시오 혼자 다녔습니다. 제가 저녁에 왕진을 마치고 돌아오면 말발굽 소리를 듣고 요시오는 반갑게 문 앞에까지 마중을 나옵니다. 그런 때묻지 않은 얼굴을 보면 매정한 아내 얼굴을 떠올리며 마음이 슬퍼지지 않을 수 없었습니다.

어느 날에 일어난 일입니다. 그것은 장마철에 침울하게 흐린 날이었습니다. “가득 구름 낀 하늘을 보고 있노라니 사람을 죽이고 싶어지누나”라고 다쿠보쿠(啄木)가 노래한 것 같은, 유독 마음이 무거워지는 날이었으며 산등성에 걸친 두꺼운 먹구름이 악마가 토해낸 독기처럼 보이고 일종의 섬뜩함이 공기 가득 흐르고 있었습니다. 그 날도 저는 상당히 먼 곳까지 왕진을 나갔으며 오후 5시 경에는 피로에 지쳐 돌아오자 항상 문 앞에까지 마중 나오던 요시오가 안 보이기에 무슨 일인가 하고 이상하게 생각했습니다. 마부가 어제부터 어머니의 병문안 때문에 집으로 내려갔으므로 제가 말을 마구간에 묶어 놓고는 집안으로 들어가자 아내가 달려와 심하게 화를 내며 말했습니다.

“여보, 요시오는 너무 뻔뻔하지 않나요? 놀러 나가서는 아직도 돌아오지 않아요.”

“무슨 일이지? 학교에서 무슨 볼일이라도 있었나?”

학교에 볼일이 있을 리 없다는 것을 알면서도 가급적 아내의 화를 잠재우기 위해 마당에 선 채로 저는 부드럽게 말했습니다.

“그럴 리가 있나요. 제 얼굴을 보기 싫으니까 일부러 늦게 돌아올 생각인 거예요.”

좀처럼 놀러 나가지 않는 아이였으므로 저는 내심 말할 수 없는 불안감을 느꼈으나 아내 마음이 상하면 곤란했기에 “오세이한테라도 그 주변을 찾아봐달라고 하지.”라고 말했습니다.

“오세이는 가토(加藤)랑 같이 심부름 가서 없어요.”라고 성의 없게 대답합니다. 가토는 간호사 이름입니다.

그 때 문밖에서 많은 사람들이 웅성대기에 저는 좋지 않은 예감 때문에 겁이 나서 저도 모르게 아내와 얼굴을 마주 보았습니다. 아내의 눈은 불처럼 반짝였습니다.

“선생님, 도련님이…….”

문밖으로 달려 나가자 제 얼굴을 보고 마을 사내가 소리쳤습니다. 흙탕물에 젖은 교복을 입은 요시오가 나무판에 실려 마을 사람 네다섯 명의 손에 들려온 것입니다.

“……딱하게도 벼락에서 떨어진 거예요. 아직 숨이 붙어 있으니 어서 치료를…….”

그 다음에 제가 어떤 행동을 했는지 지금은 잘 기억이 나지 않습니다. 아무튼 몇 분 뒤, 요시오는 진찰실 한 구석에 있는 침대 위에 눕혀지고 머리맡에는 저와 아내가 서서 상처를 검사했습니다. 마을 사람들은 모두 돌아가서 주변은 조용하고 찰칵거리는 시계 소리가 가슴을 파헤치듯 울려 퍼졌습니다. 요시오는 엎어져서 벼락 밑에 있는 바위에 부딪힌 듯, 오른쪽 가슴 앞부분에 있는 늑골 3~5개가 골절되었으며, 주먹 두 개 정도 되는 크기가 파였습니다. 요시오는 눈을 꼭 감은 채로 매우 약한 호흡을 계속하고 있었습니다. 맥박은 거의 잡을 수 없을 정도였으나 청진을 하자 심장은 분명히 뛰고 있었습니다.

저는 기계처럼 일어서서 중앙에 있는 유리 탁자 위에 놓인 강심제 즉 캠퍼 병과 주사기를 손에 들었습니다. “당신 왜 그래요? 요시오를 괴롭힐 생각인가요?”라고 아내는 떨리는 목소리로 저를 막아섰습니다.

저는 아마도 그 때 조금 주저했나봅니다. 또는 아마도 제 이성은 평소 안락사를 주장하면서도 자신의 아이가 느끼는 고통에 대해서는 불쌍하게 생각하지 않느냐고 자문했겠지요. 그러나 여하튼 10년 가까이 지켜온 제 신념은 그 순간 흔적도 없이 박살났습니다. 인간에게는 이성에 의한 행위 외에 반사적 행위가 있습니다. 지금 그 반사적 행위는 앞뒤 분간할 수 있는 여유조차 주지 않았습니다.

저는 아내를 밀어내고 요시오의 팔에 세 번 주사했습니다. 아내는 연신 무슨 말을 하고 있었으나 그 말은 조금도 제 귀에 들어오지 않았습니다. 얼마 지나지 않아 요시오 입술은 보라색에서 붉은 색으로 변했습니다. “됐어!”라고 저는 마음속으로 소리쳤습니다. 네 통째를 주사하자 요시오는 눈을 떴습니다.

“요시오. 정신이 들어?”라고 저는 요시오를 들여다보며 물었습니다.

그는 가볍게 고개를 끄덕였습니다. 제 눈에서는 하염없이 눈물이 흘러내렸습니다. 그러자 요시오는 입을 조금씩 움직였습니다. 아마도 무슨 말을 하려 하는 것 같았습니다.

가자기 아내는 오른손을 뻗어 마치 질식시키려는 듯 요시오의 입과 코를 막으며 세게 눌렀습니다.

“무슨 짓이야!!”하고 저는 있는 힘껏 아내 어깨를 잡고 뒤로 물리치자, 아내는 철퍼덕 하고 엉덩방아를 찍더니 유리 탁자를 뒤엎었습니다. 유리가 깨지는 소리가 요시오를 놀라게 했는지 그는 작게 신음소리를 내며 무슨 말을 하려고 했습니다. 저는 이 세상 모든 것을 잊고, 온 신경을 집중하여 그의 입가를 바라보았습니다.

“……어머니……잘 못했어요. ……어머니가 밀었을 때……저는, 바로, 죽었어야 했는데…….”

도끼로 머리를 얻어맞은 것처럼 충격을 받았습니다. 주변이 갑자기 어두워지고 정신이 혼미해졌습니다. 그러나 저는 요시오 입에서 나오는 임종의 피거품을 희미하게 보았습니다. 그리도 발광한 아내가 등 뒤에서 하는 말을 희미하게 들었습니다.

“오호호호호. 그러니까 강심제 같은 걸 쓰면 안 된다고 했잖아요……. 오호호호호.”

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Posted by 문학관 관리인 위어조자(謂語助者)


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