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찬스(チャンス)

다자이 오사무(太宰 治) (1946)


 人生はチャンスだ。結婚もチャンスだ。恋愛もチャンスだ。と、したり顔して教える苦労人が多いけれども、私は、そうでないと思う。私は別段、れいの唯物論的弁証法に媚(こ)びるわけではないが、少くとも恋愛は、チャンスでないと思う。私はそれを、意志だと思う。

 しからば、恋愛とは何か。私は言う。それは非常に恥かしいものである。親子の間の愛情とか何とか、そんなものとはまるで違うものである。いま私の机の傍の辞苑をひらいて見たら、「恋愛」を次の如(ごと)く定義していた。

「性的衝動に基づく男女間の愛情。すなわち、愛する異性と一体になろうとする特殊な性的愛。」

 しかし、この定義はあいまいである。「愛する異性」とは、どんなものか。「愛する」という感情は、異性間に於いて、「恋愛」以前にまた別個に存在しているものなのであろうか。異性間に於いて恋愛でもなく「愛する」というのは、どんな感情だろう。すき。いとし。ほれる。おもう。したう。こがれる。まよう。へんになる。之等(これら)は皆、恋愛の感情ではないか。これらの感情と全く違って、異性間に於いて「愛する」というまた特別の感情があるのであろうか。よくキザな女が「恋愛抜きの愛情で行きましょうよ。あなたは、あたしのお兄さまになってね」などと言う事があるけれど、あれがつまり、それであろうか。しかし、私の経験に依(よ)れば、女があんな事を言う時には、たいてい男がふられているのだと解して間違い無いようである。「愛する」もクソもありやしない。お兄さまだなんてばからしい。誰がお前のお兄さまなんかになってやるものか。話がちがうよ。

 キリストの愛、などと言い出すのは大袈裟(おおげさ)だが、あのひとの教える「隣人愛」ならばわかるのだが、恋愛でなく「異性を愛する」というのは、私にはどうも偽善のような気がしてならない。

 つぎにまた、あいまいな点は、「一体になろうとする特殊な性的愛」のその「性的愛」という言葉である。

 性が主なのか、愛が主なのか、卵が親か、鶏が親か、いつまでも循環するあいまい極(きわ)まる概念である。性的愛、なんて言葉はこれは日本語ではないのではなかろうか。何か上品めかして言いつくろっている感じがする。

 いったい日本に於いて、この「愛」という字をやたらに何にでもくっつけて、そうしてそれをどこやら文化的な高尚(こうしょう)なものみたいな概念にでっち上げる傾きがあるようで、(そもそも私は「文化」という言葉がきらいである。文のお化けという意味であろうか。昔の日本の本には、文華または文花と書いてある)恋と言ってもよさそうなのに、恋愛、という新語を発明し、恋愛至上主義なんてのを大学の講壇で叫んで、時の文化的なる若い男女の共鳴を得たりしたようであったが、恋愛至上というから何となく高尚みたいに聞えるので、これを在来の日本語で、色慾至上主義と言ったら、どうであろうか。交合至上主義と言っても、意味は同じである。そんなに何も私を、にらむ事は無いじゃないか。恋愛女史よ。

 つまり私は恋愛の「愛」の字、「性的愛」の「愛」の字が、気がかりでならぬのである。「愛」の美名に依って、卑猥感(ひわいかん)を隠蔽(いんぺい)せんとたくらんでいるのではなかろうかとさえ思われるのである。

「愛」は困難な事業である。それは、「神」にのみ特有の感情かも知れない。人間が人間を「愛する」というのは、なみなみならぬ事である。容易なわざではないのである。神の子は弟子たちに「七度の七十倍ゆるせ」と教えた。しかし、私たちには、七度でさえ、どうであろうか。「愛する」という言葉を、気軽に使うのは、イヤミでしかない。キザである。

「きれいなお月さまだわねえ。」なんて言って手を握り合い、夜の公園などを散歩している若い男女は、何もあれは「愛し」合っているのではない。胸中にあるものは、ただ「一体になろうとする特殊な性的煩悶(はんもん)」だけである。

 それで、私がもし辞苑の編纂者(へんさんしゃ)だったならば、次のように定義するであろう。

「恋愛。好色の念を文化的に新しく言いつくろいしもの。すなわち、性慾衝動に基づく男女間の激情。具体的には、一個または数個の異性と一体になろうとあがく特殊なる性的煩悶。色慾の Warming-up とでも称すべきか。」

 ここに一個または数個と記したのは、同時に二人あるいは三人の異性を恋い慕い得るという剛の者の存在をも私は聞き及んでいるからである。俗に、三角だの四角だのいう馬鹿らしい形容の恋の状態をも考慮にいれて、そのように記したのである。江戸の小咄(こばなし)にある、あの、「誰でもよい」と乳母(うば)に打ち明ける恋いわずらいの令嬢も、この数個のほうの部類にいれて差(さ)し支(つか)えなかろう。

 太宰もイヤにげびて来たな、と高尚な読者は怒ったかも知れないが、私だってこんな事を平気で書いているのではない。甚(はなは)だ不愉快な気持で、それでも我慢してこうして書いているのである。

 だから私は、はじめから言ってある。

 恋愛とは何か。

 曰(いわ)く、「それは非常に恥かしいものである」と。

 その実態が、かくの如きものである以上、とてもそれは恥かしくて、口に出しては言えない言葉であるべき筈なのに、「恋愛」と臆(おく)するところ無くはっきりと発音して、きょとんとしている文化女史がその辺にもいたようであった。ましてや「恋愛至上主義」など、まあなんという破天荒(はてんこう)、なんというグロテスク。「恋愛は神聖なり」なんて飛んでも無い事を言い出して居直ろうとして、まあ、なんという図々(ずうずう)しさ。「神聖」だなんて、もったいない。口が腐りますよ。まあ、どこを押せばそんな音(ね)が出るのでしょう。色気違いじゃないかしら。とても、とても、あんな事が、神聖なものですか。

 さて、それでは、その恋愛、すなわち色慾の Warming-up は、単にチャンスに依(よ)ってのみ開始せられるものであろうか。チャンスという異国語はこの場合、日本に於いて俗に言われる「ひょんな事」「ふとした事」「妙な縁」「きっかけ」「もののはずみ」などという意味に解してもよろしいかと思われるが、私の今日までの三十余年間の好色生活を回顧しても、そのような事から所謂(いわゆる)「恋愛」が開始せられた事は一度も無かった。「もののはずみ」で、つい、女性の繊手(せんしゅ)を握ってしまった事も無かったし、いわんや、「ふとした事」から異性と一体になろうとあがく特殊なる性的煩悶、などという壮烈な経験は、私には未(いま)だかつて無いのである。

 私は決して嘘(うそ)をついているのではない。まあ、おしまいまで読み給え。

「もののはずみ」とか「ひょんな事」とかいうのは、非常にいやらしいものである。それは皆、拙劣きわまる演技でしかない。稲妻(いなずま)。あー こわー なんて男にしがみつく、そのわざとらしさ、いやらしさ。よせやい、と言いたい。こわかったら、ひとりで俯伏(うつぶ)したらいいじゃないか。しがみつかれた男もまた、へたくそな手つきで相手の肩を必要以上に強く抱いてしまって、こわいことない、だいじょぶ、など外人の日本語みたいなものを呟(つぶや)く。舌がもつれ、声がかすれているという情無い有様である。演技拙劣もきわまれりと言うべきである。「甘美なる恋愛」の序曲と称する「もののはずみ」とかいうものの実況は、たいていかくの如く、わざとらしく、いやらしく、あさましく、みっともないものである。

 だいたいひとを馬鹿にしている。そんな下手(へた)くそな見えすいた演技を行っていながら、何かそれが天から与えられた妙な縁の如く、互いに首肯(しゅこう)し合おうというのだから、厚かましいにも程があるというものだ。自分たちの助平の責任を、何もご存じない天の神さまに転嫁しようとたくらむのだから、神さまだって唖然(あぜん)とせざるを得まい。まことにふとい了見(りょうけん)である。いくら神さまが寛大だからといって、これだけは御許容なさるまい。

 寝てもさめても、れいの「性的煩悶」ばかりしている故に、そんな「もののはずみ」だの「きっかけ」だのでわけもなく「恋愛関係」に突入する事が出来るのかも知れないが、しかし心がそのところに無い時には、「きっかけ」も「妙な縁」もあったものでない。

 いつか電車で、急停車のために私は隣りに立っている若い女性のほうによろめいた事があった。するとその女性は、けがらわしいとでもいうようなひどい嫌悪(けんお)と侮蔑(ぶべつ)の眼つきで、いつまでも私を睨(にら)んでいた。たまりかねて私は、その女性の方に向き直り、まじめに、低い声で言ってやった。

「僕が何かあなたに猥褻(わいせつ)な事でもしたのですか? 自惚(うぬぼ)れてはいけません。誰があなたみたいな女に、わざとしなだれかかるものですか。あなたご自身、性慾が強いから、そんなへんな気のまわし方をするのだと思います。」

 その女性は、私の話がはじまるやいなや、ぐいとそっぽを向いてしまって、全然聞えない振りをした。馬鹿野郎! と叫んで、ぴしゃんと頬を一つぶん殴ってやりたい気がした。かくの如く、心に色慾の無い時には、「きっかけ」も「もののはずみ」も甚(はなは)だ白々しい結果に終るものなのである。よく列車などで、向い合せに坐った女性と「ひょんな事」から恋愛関係におちいったなど、ばからしい話を聞くが、「ひょんな事」も「ふとした事」もありやしない。はじめから、そのつもりで両方が虎視眈々(こしたんたん)、何か「きっかけ」を作ろうとしてあがきもがいた揚句(あげく)の果の、ぎごちないぶざまな小細工(こざいく)に違いないのだ。心がそのところにあらざれば、脚がさわったって頬がふれたって、それが「恋愛」の「きっかけ」などになる筈は無いのだ。かつて私は新宿から甲府まで四時間汽車に乗り、甲府で下車しようとして立ち上り、私と向い合せに凄(すご)い美人が坐っていたのにはじめて気がつき、驚いた事がある。心に色慾の無い時は、凄いほどの美人と膝頭(ひざがしら)を接し合って四時間も坐っていながら、それに気がつかない事もあるのだ。いや、本当にこれは、事実談なのである。図に乗ってまくし立てるようだが、登楼(とうろう)して、おいらんと二人でぐっすり眠って、そうして朝まで、「ひょんな事」も「妙な縁」も何も無く、もちろんそれゆえ「恋愛」も何も起らず、「おや、お帰り?」「そう。ありがとう。」と一夜の宿のお礼を言ってそのまま引き上げた経験さえ私にはあった。

 こんな事を言っていると、いかにも私は我慢してキザに木石を装っている男か、或(ある)いは、イムポテンツか、或いは、実は意馬心猿(いばしんえん)なりと雖(いえど)も如何(いかん)せんもてず、振られどおしの男のように思うひともあるかも知れぬが、私は決してイムポテンツでもないし、また、そんな、振られどおしの哀(あわ)れな男でも無いつもりでいる。要するに私の恋の成立不成立は、チャンスに依らず、徹頭徹尾、私自身の意志に依るのである。私には、一つのチャンスさえ無かったのに、十年間の恋をし続け得た経験もあるし、また、所謂絶好のチャンスが一夜のうちに三つも四つも重っても、何の恋愛も起らなかった事もある。恋愛チャンス説は、私に於いては、全く取るにも足らぬあさはかな愚説のようにしか思われない。それを立派に証明せんとする目的を以て、私は次に私の学生時代の或るささやかな出来事を記して置こうと思う。恋はチャンスに依らぬものだ。一夜に三つも四つも「妙な縁」やら「ふとした事」やら「思わぬきっかけ」やらが重って起っても、一向に恋愛が成立しなかった好例として、次のような私の体験を告白しようと思うのである。

 あれは私が弘前(ひろさき)の高等学校にはいって、その翌年の二月のはじめ頃だったのではなかったかしら、とにかく冬の、しかも大寒(だいかん)の頃の筈である。どうしても大寒の頃でなければならぬわけがあるのだが、しかし、そのわけは、あとで言う事にして、何の宴会であったか、四五十人の宴会が弘前の或る料亭でひらかれ、私が文字どおりその末席に寒さにふるえながら坐っていた事から、この話をはじめたほうがよさそうである。

 あれは何の宴会であったろう。何か文芸に関係のある宴会だったような気もする。弘前の新聞記者たち、それから町の演劇研究会みたいなもののメンバー、それから高等学校の先生、生徒など、いろいろな人たちで、かなり多人数の宴会であった。高等学校の生徒でそこに出席していたのは、ほとんど上級生ばかりで、一年生は、私ひとりであったような気がする。とにかく、私は末席であった。絣(かすり)の着物に袴(はかま)をはいて、小さくなって坐っていた。芸者が私の前に来て坐って、

「お酒は? 飲めないの?」

「だめなんだ。」

 当時、私はまだ日本酒が飲めなかった。あのにおいが厭(いや)でたまらなかった。ビイルも飲めなかった。にがくて、とても、いけなかった。ポートワインとか、白酒とか、甘味のある酒でなければ飲めなかった。

「あなたは、義太夫(ぎだゆう)をおすきなの?」

「どうして?」

「去年の暮に、あなたは小土佐(ことさ)を聞きにいらしてたわね。」

「そう。」

「あの時、あたしはあなたの傍にいたのよ。あなたは稽古本(けいこぼん)なんか出して、何だか印をつけたりして、きざだったわね。お稽古も、やってるの?」

「やっている。」

「感心ね。お師匠さんは誰?」

「咲栄太夫(さきえだゆう)さん。」

「そう。いいお師匠さんについたわね。あのかたは、この弘前では一ばん上手(じょうず)よ。それにおとなしくて、いいひとだわ。」

「そう。いいひとだ。」

「あんなひと、すき?」

「師匠だもの。」

「師匠だからどうなの?」

「そんな、すきだのきらいだのって、あのひとに失敬だ。あのひとは本当にまじめなひとなんだ。すきだのきらいだの。そんな、馬鹿な。」

「おや、そうですか。いやに固苦しいのね。あなたはこれまで芸者遊びをした事なんかあるの?」

「これからやろうと思っている。」

「そんなら、あたしを呼んでね、あたしの名はね、おしのというのよ。忘れないようにね。」

 昔のくだらない花柳(かりゅう)小説なんていうものに、よくこんな場面があって、そうして、それが「妙な縁」という事になり、そこから恋愛がはじまるという陳腐(ちんぷ)な趣向が少くなかったようであるが、しかし、私のこの体験談に於いては、何の恋愛もはじまらなかった。したがってこれはちっとも私のおのろけというわけのものではないから、読者も警戒御無用にしていただきたい。

 宴会が終って私は料亭から出た。粉雪が降っている。ひどく寒い。

「待ってよ。」

 芸者は酔っている。お高祖頭巾(こそずきん)をかぶっている。私は立ちどまって待った。

 そうして私は、或る小さい料亭に案内せられた。女は、そこの抱(かか)え芸者とでもいうようなものであったらしい。奥の部屋に通されて、私は炬燵(こたつ)にあたった。

 女はお酒や料理を自分で部屋に運んで来て、それからその家の朋輩(ほうばい)らしい芸者を二人呼んだ。みな紋附を着ていた。なぜ紋附を着ていたのか私にはわからなかったが、とにかく、その酔っているお篠(しの)という芸者も、その朋輩の芸者も、みな紋の附いた裾(すそ)の長い着物を着ていた。

 お篠は、二人の朋輩を前にして、宣言した。

「あたしは、こんどは、このひとを好きになる事にしましたから、そのつもりでいて下さい。」

 二人の朋輩は、イヤな顔をした。そうして、二人で顔を見合せ、何か眼で語り、それから二人のうちの若いほうの芸者が膝を少しすすめて、

「ねえさん、それは本気?」と怒っているような口調で問うた。

「ああ、本気だとも、本気だとも。」

「だめですよ。間違っています。」と若い子は眉(まゆ)をひそめてまじめに言い、それから私にはよくわからない「花柳隠語」とでもいうような妙な言葉をつかって、三人の紋附の芸者が大いに言い争いをはじめた。

 しかし、私の思いは、ただ一点に向って凝結されていたのである。炬燵の上にはお料理のお膳(ぜん)が載せられてある。そのお膳の一隅(ぐう)に、雀焼(すずめや)きの皿がある。私はその雀焼きが食いたくてならぬのだ。頃しも季節は大寒(だいかん)である。大寒の雀の肉には、こってりと油が乗っていて最もおいしいのである。寒雀(かんすずめ)と言って、この大寒の雀は、津軽の童児の人気者で、罠(わな)やら何やらさまざまの仕掛けをしてこの人気者をひっとらえては、塩焼きにして骨ごとたべるのである。ラムネの玉くらいの小さい頭も全部ばりばり噛(か)みくだいてたべるのである。頭の中の味噌(みそ)はまた素敵においしいという事になっていた。甚だ野蛮な事には違いないが、その独特の味覚の魅力に打ち勝つ事が出来ず、私なども子供の頃には、やはりこの寒雀を追いまわしたものだ。

 お篠さんが紋附の長い裾をひきずって、そのお料理のお膳を捧げて部屋へはいって来て、(すらりとしたからだつきで、細面(ほそおもて)の古風な美人型のひとであった。としは、二十二、三くらいであったろうか。あとで聞いた事だが、その弘前の或る有力者のお妾(めかけ)で、まあ、当時は一流のねえさんであったようである)そうして、私のあたっている炬燵の上に置いた瞬間、既に私はそのお膳の一隅に雀焼きを発見し、や、寒雀! と内心ひそかに狂喜したのである。たべたかった。しかし、私はかなりの見栄坊であった。紋附を着た美しい芸者三人に取りまかれて、ばりばりと寒雀を骨ごと噛みくだいて見せる勇気は無かった。ああ、あの頭の中の味噌はどんなにかおいしいだろう。思えば、寒雀もずいぶんしばらく食べなかったな、と悶(もだ)えても、猛然とそれを頬張る蛮勇は無いのである。私は仕方なく銀杏(ぎんなん)の実を爪楊枝(つまようじ)でつついて食べたりしていた。しかし、どうしても、あきらめ切れない。

 一方、女どもの言い争いは、いつまでもごたごた続いている。

 私は立上って、帰ると言った。

 お篠は、送ると言った、私たちは、どやどやと玄関に出た。あ、ちょっと、と言って、私は飛鳥の如く奥の部屋に引返し、ぎょろりと凄くあたりを見廻し、矢庭(やにわ)にお膳の寒雀二羽を掴(つか)んでふところにねじ込み、それからゆっくり玄関へ出て行って、

「わすれもの。」と嗄(しゃが)れた声で嘘を言った。

 お篠はお高祖頭巾をかぶって、おとなしく私の後について来た。私は早く下宿へ行って、ゆっくり二羽の寒雀を食べたいとそればかり思っていた。二人は雪路を歩きながら、格別なんの会話も無い。

 下宿の門はしまっていた。

「ああ、いけない。しめだしを食っちゃった。」

 その家の御主人は厳格なひとで、私の帰宅のおそすぎる時には、こらしめの意味で門をしめてしまうのである。

「いいわよ。」とお篠は落ちついて、「知ってる旅館がありますから。」

 引返して、そのお篠の知っている旅館に案内してもらった。かなり上等の宿屋である。お篠は戸を叩いて番頭を起し、私の事をたのんだ。

「さようなら。どうも、ありがとう。」と私は言った。

「さようなら。」とお篠も言った。

 これでよし、あとはひとりで雀焼きという事になる。私は部屋に通され、番頭の敷いてくれた蒲団(ふとん)にさっさともぐり込んで、さて、これからゆっくり寒雀をと思ったとたんに玄関で、

「番頭さん!」と呼ぶお篠の声。私は、ぎょっとして耳をすました。

「あのね、下駄(げた)の鼻緒(はなお)を切らしちゃったの。お願いだから、すげてね。あたしその間、お客さんの部屋で待ってるわ。」

 これはいけない、と私は枕元(まくらもと)の雀焼きを掛蒲団の下にかくした。

 お篠は部屋へはいって来て、私の枕元にきちんと坐り、何だか、いろいろ話しかける。私は眠そうな声で、いい加減の返辞をしている。掛蒲団の下には雀焼きがある。とうとうお篠とは、これほどたくさんのチャンスがあったのに、恋愛のレの字も起らなかった。お篠はいつまでも私の枕元に坐っていて、そうしてこう言った。

「あたしを、いやなの。」

 私はそれに対してこう答えた。

「いやじゃないけど、ねむくって。」

「そう。それじゃまたね。」

「ああ、おやすみ。」と私のほうから言った。

「おやすみなさい。」

 とお篠も言って、やっと立ち上った。

 そうして、それだけであった。その後、私は芸者遊びなど大いにするようになったが、なぜだか弘前で遊ぶのは気がひけて、おもに青森の芸者と遊んだ。問題の雀焼きは、お篠の退去後に食べたか、または興覚めて棄てちゃったか、思い出せない。さすがに、食べるのがいやになって、棄てちゃったような気もする。

 これが即ち、恋はチャンスに依らぬものだ、一夜のうちに「妙な縁」やら「ふとした事」やら「もののはずみ」やらが三つも四つも重って起っても、或る強固な意志のために、一向に恋愛が成立しないという事の例証である。ただもう「ふとした事」で恋愛が成立するものとしたら、それは実に卑猥(ひわい)な世相になってしまうであろう。恋愛は意志に依るべきである。恋愛チャンス説は、淫乱(いんらん)に近い。それではもう一つの、何のチャンスも無かったのに、十年間の恋をし続け得た経験とはどんなものであるかと読者にたずねられたならば、私は次のように答えるであろう。それは、片恋というものであって、そうして、片恋というものこそ常に恋の最高の姿である。

 庭訓(ていきん)。恋愛に限らず、人生すべてチャンスに乗ずるのは、げびた事である。



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Posted by 문학관 관리인 위어조자(謂語助者)

찬스(チャンス)

다자이 오사무(太宰 治) (1946)

번역 : 홍성필


 인생은 찬스다. 결혼도 찬스다. 연애도 찬스다. 이러면서 아무렇지도 않게 가르치는 사람들이 많지만 난 그렇지 않다고 생각한다. 나는 그렇다고 그 유물론적 변증법 따위를 들먹이려는 것은 아니지만, 적어도 연애는, 찬스가 아니라고 생각한다. 나는 그것을 의지라고 생각한다.


 그렇다면 연애란 무엇인가. 나는 말한다. 그것은 매우 부끄러운 것이다. 부모와 자식 간의 애정이다 뭐다, 그런 것과는 전혀 다른 것이다. 지금 내 책상 곁에 있는 사전을 펼쳐 보니 ‘연애’를 다음과 같이 정의하고 있었다.


 ‘성적충동에 기인한 남녀간의 애정. 즉, 사랑하는 이성과 한 몸이 되려는 특수한 성적애(性的愛).’


 그러나 이 정의는 애매하다. ‘사랑하는 이성’이란 무엇인가. ‘사랑한다’ 라는 감정은 이성간에 있어서 ‘연애’ 이전에 별개로 존재하고 있는 것인가. 이성간에 있어서 연애도 아니고 ‘사랑한다’란 어떤 감정일까. 좋아하다. 연모하다. 반하다. 생각하다. 사모하다. 동경하다. 망설이다. 이상해지다. 이들 모두가 연애에 대한 감정이 아닌가. 이와 같은 감정과는 전혀 다르게 이성간에 있어서의 ‘사랑한다’ 는 또 다른 특별한 감정이 있는 것일까. 종종 겉멋 들린 여자들이 ‘연애 아닌 애정으로 만나요. 당신은 내 오빠가 되어주세요’ 라고 말할 때가 있으나, 그것이 다시 말해서 그 뜻인가. 그러나 내 경험에 의하면 여자가 그런 말을 할 때는 대부분 남자가 채였다고 해석해도 틀리지 않을 것 같다. ‘사랑한다’고 뭐고 없다. 오빠라니 말도 안 돼. 누가 너한테 오빠가 되어주겠다고 했는가. 그런 말이 아니야.


 그리스도의 사랑, 이라고 하면 너무 거창하지만 그 사람이 말하는 ‘이웃사랑’이라면 알겠으나, 연애가 아닌 ‘이성을 사랑한다’는 것은, 내게는 아무리 생각해도 위선인 것 같다. 


 다음으로 또 애매한 점은 ‘한 몸이 되려는 특수한 성적애’의 그 ‘성적애’라는 말이다.


 성이 주인지 사랑이 주인지, 계란이 먼저인지 닭이 먼저인지, 언제까지나 순환되는, 애매함의 극치를 달리는 개념이다. 성적애, 라는 말은 일본말이 아닌 게 아닐까. 무언가 고상하게 말을 만들었다는 느낌이 든다.


 대체 일본에 있어서 이 ‘애(愛)’이라는 글자를 여기저기 붙여놓아, 그리하여 그것을 어딘지 모르게 문화적 고상함 같은 개념으로 속이는 경향이 있는 듯 하여, (본래 나는 ‘文化’라는 말이 싫다. 글의 오바케(お化け:귀신이라는 뜻)라는 말인가. 옛날 일본 책에는 文華, 또는 文花라고 적혀 있다.) 사랑(戀)이라고 해도 되는 것을 연애, 라는 새로운 말을 발명하여 연애지상주의라는 것을 대학 강단에서 외쳐 일부 문화적인 젊은 남녀들의 공감을 얻기도 한 듯하나, 연애지상이라고 하니 왠지 모르게 고상하게 들리는 것이지, 이를 본래 있는 일본어로 색욕지상주의라고 하면 어떨까. 교합지상주의라고 해도 뜻은 같다. 그렇다고 그리 노려볼 것까지는 없지 않은가, 연애여인들이여.


 즉 나는 연애의 ‘애(愛)’라는 글자, ‘성적애’의 ‘애’라는 글자가 마음에 걸린다. ‘애’라는 미명 하에 외설적인 느낌을 은폐하려는 수작이 아닌가 하는 생각마저 든다.


 ‘사랑’이란 매우 어려운 사업이다. 이는 신(神)만이 가질 수 있는 특유한 감정일지도 모른다. 인간이 인간을 ‘사랑한다’는 일은 보통 일이 아니다. 여간 어려운 일이 아닌 것이다. 신의 아들은 제자들에게 ‘일곱 번씩 일흔 번 용서하라’고 가르쳤다. 그러나 우리들은 일곱 번조차 할 수 있을까. ‘사랑한다’는 말을 쉽게 쓰는 것은 가증스러울 뿐이다. 그야말로 겉치장에 불과하다.


 “아름다운 달이네요” 라고 말하며 손을 잡고 밤 공원을 산책하는 젊은 남녀들은, 그렇다고 그들은 ‘사랑’하고 있는 것이 아니다. 마음속에 있는 것이라곤 그저 ‘한 몸이 되려는 특수한 성적 번민(性的煩悶)’뿐이다.


 그러므로 내가 만약 사전의 편집자였다면 다음과 같이 정의하리라.


 ‘연애. 호색한 생각을 문화적으로 새롭게 만든 말. 즉 성적충동에 기인한 남녀간의 격정. 구체적으로는 한 개 또는 몇 개의 이성과 한 몸이 되려고 바둥거리는 특수한 성적 번민. 색욕의 워밍업이라나 할까.’


 여기에 한 개 또는 몇 개라고 적은 이유는 동시에 두 명 혹은 세 명의 이성을 사모할 수 있다는 대단한 사람의 존재도 나는 들었기 때문이다. 이른바 삼각이다 사각이다 하는 바보 같은 이름의 감정상태를 고려하여 그와 같이 적은 것이다. 에도(江戶)시대의 이야기에도 있듯이 ‘누구라도 좋다’며 유모에게 고백한 아가씨를 이 몇 개 쪽의 부류에 포함시켜도 무방하리라


 다자이도 이제 저질스러워지는군, 하며 고상한 독자들은 화를 낼지 모르나, 나도 이런 글을 아무렇지도 않게 쓰고 있는 것이 아니다. 매우 불쾌한 마음으로, 그래도 참아가며 이렇게 쓰고 있다.


 그래서 나도 처음부터 말하지 않는가.


 연애란 무엇인가.


 왈, ‘그것은 매우 부끄러운 것이다’라고.


 그 실태가 이와 같은 것인 이상, 그건 정말 부끄러워 입으로는 할 수 없는 말이어야 함에도 불구하고 ‘연애’라고 막힘 없이 또박또박 발음하고도 태연한 문화여인들이 이 주변에도 있는 듯하다. 하물며 ‘연애지상주의’라니, 이 얼마나 파렴치, 이 얼마나 그로테스크. ‘연애란 신성하다’ 라니 천부당 만부당 한 소리를 하고 납득시키려는, 정말 이 얼마나 뻔뻔한가. ‘신성’이라는 말을 함부로 쓰다니. 입이 썩습니다. 정말이지 대체 어디를 누르면 그런 소리가 튀어나오는 걸까요. 호색한이 아닐까. 도대체 그런 일이 어떻게 신성합니까.


 자, 그렇다면 그 연애, 즉 색욕의 워밍업은 단순히 찬스에 의해서만 시작되는 것일까. 찬스라는 이국어의 경우 일본에 있어서는 흔히 말하는 ‘생각지도 않던 일’, ‘뜻밖의 일’, ‘묘한 인연’, ‘실마리’, ‘어쩌다가’ 라는 뜻으로 이해해도 될 듯한데, 오늘까지 30여 년 간의 내 호색생활을 회고해보아도 그와 같은 일로 이른바 ‘연애’가 시작된 일은 한 번도 없었다. ‘어쩌다가’ 갑자기 여성의 손을 잡아본 적도 없었고, 하물며 ‘뜻밖의 일’로 이성과 한 몸이 되려고 바둥거리는 특수한 성적 번민를 하는 등의 장렬한 경험은 내겐 지금까지 단 한 번도 없었다.


 난 절대 거짓을 말하는 것이 아니다. 일단 끝까지 읽어보시게.


 ‘어쩌다가’ 또는 ‘뜻밖의 일’이라는 건 매우 음흉한 것이다. 이는 모두 졸렬한 연기에 불과하다. 천둥번개. 아- 무서워요- 라며 남자에게 매달리는 그 가증스러운 행동, 음흉합. 집어 치워, 라고 말하고 싶다. 무섭다면 혼자서 엎드리면 될 것 아닌가. 여자가 매달리자 남자도 또한 잘 하지도 못하는 손놀림으로 상대방의 어깨를 필요 이상으로 꼭 껴 안고서, 무서울 건 없어, 괜찮아, 등과 같은, 외국인들이 쓰는 일본말처럼 중얼거린다. 혀가 꼬이고 목소리가 쉬어있는 한심한 몰골이다. 졸렬한 연기의 극치라고나 할까. ‘감미로운 연애’의 서곡이라 칭하는 ‘어쩌다가’라는 것의 실상은 대부분 이와 같이 매우 의도적이고 음흉하고 가증스럽고 보기 흉한 것이다.


 사람을 아주 우습게 보고 있다. 그런 볼품없고 속이 들여다 보이는 연기를 하면서, 무슨 하늘에서 내려진 인연인 척 서로 수긍하려고 드니 뻔뻔해도 분수가 있다. 자신들의 음흉한 책임을 아무도 모르시는 하늘의 하나님께 전가하려고 하니 하나님도 아연실색할 수밖에. 참으로 대담한 발상이다. 아무리 하나님이 관대하다고 하나 이것만은 용서하지 않으시리라.


 자나 깨나 그 ‘성적번민’만 하고 있기 때문에 그런 ‘어쩌다가’다 ‘실마리’다 하는 것으로 이유도 없이 ‘연애관계’에 돌입할 수는 있을지 모르지만, 그러나 마음이 그 쪽으로 가 있지 않은 때라면 ‘실마리’도 ‘묘한 인연’도 없다.


 언젠가 전철에서 급정거 때문에 나는 옆에 서 있는 젊은 여성 쪽으로 흔들린 적이 있다. 그러자 그 여성은 더러운 것이라도 보듯 심한 혐오와 능멸의 눈빛으로 언제까지나 나를 노려보고 있었다. 참다 못한 나는 그 여성 쪽을 돌아보고 진지한 표정으로 조용히 말했다.


 “내가 무언가 당신한테 외설적인 행동이라도 했나요? 착각하지 마세요. 누가 당신 같은 여자한테 일부러 기대겠습니까. 당신 스스로 색욕이 강하니까 그런 이상한 상상을 하는 거라고 생각합니다.”


 그 여성은 내가 이야기를 시작하자 마자 휙 하고 옆을 보며 전혀 안 들리는 척을 했다. 멍청한 놈아! 라고 소리치며 뺨을 한 대 갈겨주고 싶었다. 이처럼 마음에 색욕이 없을 때에는 ‘실마리’도 ‘어쩌다가’도 매우 허탈한 결과로 끝나고 만다. 자주 열차 등에서 마주앉은 여성과 ‘뜻밖의 일’로 연애관계에 빠졌다는, 바보 같은 말을 듣지만 ‘뜻밖의 일’도 ‘생각지도 않은 일’도 아니다. 처음부터 그럴 생각으로 서로가 호시탐탐, 무엇인가 ‘실마리’를 만들려고 애를 쓴 끝에 얻어 낸 어색하고도 꼴불견인 장난임이 분명하다. 마음이 그 곳에 없었다면 다리가 닿건, 볼이 닿건 그것이 ‘연애’의 ‘실마리’가 될 리는 만무하다. 예전에 내가 신쥬쿠(新宿)에서 코후(甲府)까지 4시간 동안 기차를 타고 코후에서 내리려고 일어섰을 때 나와 마주앉은 자리에 엄청난 미인이 앉아 있었다는 사실을 처음 알고 놀란 일이 있다. 마음에 색욕이 없을 경우 엄청난 미인과 무릎을 마주한 채로 4시간이나 앉아 있으면서도, 그 사실을 깨닫지 못할 때도 있는 것이다. 아니, 정말로 이것은 실제 이야기다. 내친 김에 너무 떠벌리는 것 같으나, 기생집에서 기생과 단둘이 잠을 푹 잔 후, 그리고는 아침까지 ‘뜻밖의 일’도 ‘묘한 인연’도 아무 것도 없이, 물론 그랬기에 ‘연애’도 아무 것도 일어나지 않은 채, “어머, 집에 가요?”, “그래, 고마웠어” 라고 하룻밤 재워준 감사를 표하고서 그대로 돌아간 경험조차 내게는 있었다.


 이런 일을 말하면 정말 나는 억지로 멋만 부리며 목석 흉내를 내는 녀석이나, 혹은 성 불구자나, 아니면 사실은 의마심원(意馬心猿)이라 해도 인기가 없어 여자한테 채이기만 하는 딱한 녀석이라 생각하는 사람도 있을지 모르지만, 나는 절대 성적 불구도 아니며 또한 그런 채이기만 하는 딱한 녀석도 아니라고 생각한다. 말하자면 내 사랑(戀)의 성립 불성립은 찬스에 의하지 않고 철두철미하게 나 자신의 의지에 의한 것이다. 내게는 단 한 가지 찬스도 없었음에도 10년 동안 사랑(戀)을 계속 한 경험도 있으며, 반면 이른바 절호의 찬스가 하룻밤 사이에 세 번, 네 번 겹쳤어도 아무런 연애도 일어나지 않았던 일도 있다. 연애찬스설은 내게 있어서 전혀 가치 없는, 어리석은 소리라고 밖에 들리지 않는다. 그 점을 훌륭히 증명하고자 하는 목적을 가지고 나는 이하에 내 학생시절 일어났던 간략한 사건을 기록해두고자 한다. 사랑(戀)은 찬스에 의한 것이 아니다. 하룻밤 사이에 세 계, 네 개씩이나 ‘묘한 인연’이나 ‘뜻밖의 일’이나 ‘생각지도 않은 일’이 겹쳐서 일어나도 전혀 연애가 성립하지 않았던 좋은 예로서 다음과 같은 내 체험을 고백하고자 하는 것이다.


 그것은 내가 히로사키(弘前)에 있는 고등학교에 들어가, 그 다음 해인 2월 초경이지 않았을까, 아무튼 겨울, 그것도 대한(大寒) 무렵이었을 것이다. 왜 대한(大寒) 때라야만 하는가 하는 점은, 그러나 그 이유는 나중에 말하기로 하고, 무슨 연회였는지 40~50명 규모의 연회가 히로사키에 있는 어떤 요정에서 열려, 내가 말 그대로 말석에 추위에 떨며 앉아있었던 일부터 이 이야기를 시작하는 편이 좋을 것 같다.


 그것은 무슨 연회였을까. 무슨 문예에 관련이 있는 연회였던 것 같다. 히로사키의 신문기자들, 그리고 마을의 연극연구회 같은 멤버, 그리고 고등학교 선생님, 학생 등 여러 사람들로 꽤 인원수가 많은 연회였다. 고등학교 학생으로서 그 자리에 출석했던 이들은 대부분 상급생이었으며, 1학년은 나 혼자였던 것 같다. 아무튼 나는 말석에 앉아 있었다. 카스리 문양 키모노와 하카마를 입고서 자그맣게 앉아 있었다. 기생이 내 앞에 와서 앉고는,


 “술은? 못 마시니?”


 “못 마시겠어.”


 당시 나는 아직 정종을 마실 수 없었다. 그 냄새가 몹시 싫었다. 맥주도 못 마셨다. 써서 도저히 불가능했다. 포트와인이나 흰 술, 단 맛이 있는 술이 아니면 마실 수가 없었다.


 “넌 기다유(義太夫)를 좋아하니?”


 “왜?”


 “작년 연말에 넌 코토사(小土佐)를 들으러 왔었지?”


 “그래.”


 “그 때 난 네 옆에 있었어. 넌 교본을 꺼내 들고 무언가 표시를 붙이고 해가며 괜히 멋을 내던데. 배우고 있니?”


 “하고 있어.”


 “훌륭하다. 스승님은 누구?”


 “사키에다유 씨.”


 “그렇구나. 좋은 스승님을 만났네. 그 분은 여기 히로사키에서 제일 잘 하시는 분이야. 더구나 얌전하고 좋은 분이셔.”


 “그렇지. 좋은 분이야.”


 “그런 사람 좋아하니?”


 “스승님이신데.”


 “스승님이니까 뭐?”


 “그런 좋다거나 싫다거나라니, 그 분에게 실례야. 그 분은 정말 착실한 사람이거든. 좋다거니 싫다거나. 말도 안 돼.”


 “어머 그래? 보기보다 구식이네. 넌 지금까지 기생들과 놀아본 적은 없니?”


 “이제부터 시작하려구.”


 “그렇다면 나를 불러. 내 이름은 있지, ‘오시노(お篠)’라고 해. 잊지 마.”


 옛날 삼류 화류소설 등을 보면 자주 이런 장면이 나와, 그리하여 그것이 ‘묘한 인연’이라는 것이 되어 거기서부터 연애가 시작된다는 진부한 취향이 적지 않은 듯하나, 그러나 내 이 체험담에 있어서는 아무런 연애도 시작하지 않았다. 따라서 이는 전혀 내 자랑을 하려는 것이 아니니 독자제현들도 경계하실 필요는 없다.


 연회가 끝난 후 나는 요정에서 나왔다. 싸락눈이 내리고 있다. 매우 춥다.


 “잠깐만요.”


 기생은 취해 있다. 오코소즈킨(御高祖頭巾)을 쓰고 있다. 나는 멈춰 서서 기다렸다.


 그 후 나는 어떤 작은 요정으로 안내되었다. 여자는 그곳에 소속된 기생처럼 보였다. 안쪽 방으로 들어가 나는 코타츠 앞에 앉았다.


 여자는 술과 요리를 직접 방으로 가지고 와서는, 그 가게의 친구처럼 보이는 기생 둘을 불러들였다. 모두 몬츠키(紋付)를 입고 있었다. 왜 몬츠키를 입고 있는지 나는 몰랐으나, 아무튼 술에 취한 오시노라는 기생도, 그 친구들 기생도 모두 가문(家紋)이 찍히고 소매가 긴 키모노를 입고 있었다.


 오시노는 두 친구를 앞에 두고 선언했다.


 “난 이번에는 이 사람을 좋아하기로 했으니 그렇게 알고 있어요.”


 두 친구들은 얼굴을 찌푸렸다. 그리고 둘이 서로 얼굴을 마주보고는 눈짓으로 무언가를 주고 받고서, 둘 중 젊은 쪽 기생이 조금 앞으로 다가 앉아,


 “언니. 그게 정말이에요?” 라고 화가 난 말투로 물었다.


 “그럼 정말이지. 정말이고 말고.”


 “안 돼요. 그건 잘못된 거예요.” 라고 젊은 아이는 미간을 좁히며 진지하게 말하고, 거기서부터는 내게도 잘 모르는 ‘화류계의 은어(隱語)’처럼 들리는 이상한 말을 하여, 몬츠키 차림의 세 기생이 심하게 말다툼을 시작했다.


 그러나 내 생각은 단 한 곳을 향해 결집되어 있었다. 코타츠 위에는 요리로 가득 찬 쟁반이 놓여있던 것이다. 그 쟁반 한 모퉁이에 참새구이가 놓인 접시가 있다. 나는 그 참새구이가 먹고 싶어 어쩔 줄을 몰랐다. 계절 또한 대한(大寒)이다. 대한 때의 참새고기에는 기름기가 풍부하여 가장 맛이 좋다. 한작(寒雀)이라고 하여, 대한 때의 참새는 츠가루(津輕) 지방에 사는 아이들에게 인기가 높아 덫이나 여러 가지 장치를 만들고는 이것들을 잡아 소금불에 구워서 뼈 채로 먹는다. 유리구슬만 한 작은 머리도 모두 아작아작 씹어 먹는다. 머리 속에 든 뇌는 또한 매우 맛이 좋기로 유명했다. 지극히 야만스러운 일임에는 분명했으나 그 독특한 미각의 매력을 이길 수 없어, 나도 어렸을 때 역시 이 한작을 좇아 다니곤 했었다.


 오시노 씨가 몬츠키의 긴 소매를 끌며 그 요리쟁반을 들고 방으로 들어와, (날씬한 몸매에 갸름하고 고풍스러운 미인형 여성이었다. 나이는 스물 둘, 셋 정도였을까. 나중에 들은 이야기지만 이곳 히로사키에 사는 유력인사의 첩이어서, 아마 당시로는 일류아가씨였던 것 같다) 그리하여 내가 앉은 코타츠 위에 놓은 순간 이미 나는 그 쟁반 한 구석에 참새구이를 발견하고는 앗, 한작이다! 라며 내심 매우 기뻐했다. 먹고 싶었다. 그러나 나는 체면을 중요하게 여기는 소년이었다. 몬츠키를 입은 아름다운 기생 세 명에게 둘러싸여 아작아작 한작을 뼈 채로 씹어먹을 용기는 없었다. 아아, 저 머리 속에 든 뇌는 얼마나 맛있을까. 그러고 보니 한작도 오랫동안 먹지 못했다, 이런 번민 속에서도 과감하게 그것을 입에 넣을 만용은 없었다. 나는 할 수 없이 은행을 이쑤시개로 찍어먹곤 했다. 그러나 어떻게 해도 포기할 수 없다.


 한편 여자들의 말다툼은 여전히 계속되고 있다.


 나는 일어서서 돌아가겠다고 말했다.


 오시노는 배웅한다고 했다. 우리들은 와글대며 현관으로 나왔다. 아, 잠깐, 말하고 나서 날아가는 새와도 같이 안쪽 방으로 돌아가 재빨리 주위를 돌아보고는 허겁지겁 쟁반 위에 놓인 한작 두 마리를 잡고 윗도리 안으로 쑤셔 넣고서 천천히 현관 쪽으로 나가서는,


 “뭐 좀 두고와서.” 라고 쉰 목소리로 거짓말을 했다.


 오시노는 오코소즈킨을 쓰고 얌전히 내 뒤를 따라왔다. 나는 빨리 하숙집으로 돌아가 천천히 두 마리의 한작을 먹고 싶다는 생각밖에 안 들었다. 둘은 눈길을 걸으며 특별한 대화도 없었다.


 하숙집 문이 잠겨 있었다.


 “아아, 이런. 쫓겨났네.”


 그 집 주인은 엄격한 분이라서 내 귀가시간이 늦어지면 벌을 주는 의미에서 문을 잠궈버린다.


 “괜찮아.” 라고 오시노는 침착하게 “내가 아는 여관이 있으니까.”


 그 길로 되돌아 가, 오시노가 알고 있다는 여관으로 안내 받았다. 상당히 고급 여관이다. 오시노는 문을 두드리고 주인을 깨워 나를 부탁했다.


 “잘 가. 고마웠어.” 라고 나는 말했다.


 “잘 가.” 라고 오시노도 말했다.


 이제 됐다. 이제 나머지는 혼자서 참새구이를 먹게 되었다. 나는 방으로 들어가서는, 여관 주인이 깔아주는 이불 안으로 재빨리 들어가, 자, 이제부터 천천히 한작을 먹어야겠다는 생각을 한 순간 현관에서,


 “주인 아저씨!” 라고 소리치는 오시노의 목소리. 나는 깜짝 놀라 귀를 기울였다.


 “있잖아요. 게다 끈이 끊겼거든요. 부탁이니까 좀 고쳐주세요. 저는 여기 손님 방에서 기다릴게요.”


 이거 야단났다며 나는 머리맡에 있는 참새구이를 이불 밑으로 숨겼다.


 오시노는 방으로 들어와 내 베개맡에 반드시 앉아서 이런저런 말을 건다. 나는 졸린 듯한 목소리로 대충 대답했다. 이불 밑에는 참새구이가 있다. 결국 오시노와는 이처럼 많은 찬스가 있었으나 연애의 ‘연’ 자도 일어나지 않았다. 오시노는 언제까지나 베개맡에 앉아있다가 이렇게 말했다.


 “내가 싫어?”


 나는 이에 대해 이렇게 대답했다.


 “싫지는 않지만 졸려서.”


 “그래? 그럼 또 봐.”


 “그래. 잘 자.” 라고 내가 먼저 말했다.


 “잘 자요.”


 라고 오시노도 말하고 그제서야 일어났다.


 그리고는 그뿐이었다. 그 후 나는 기생들과 많이 놀게 되었으나, 왠지 히로사키에서 노는 것은 내키질 않아, 주로 아오모리(靑森) 쪽 기생들과 놀았다. 문제의 참새구이는 오시노가 물러간 후 먹었는지, 아니면 질려서 버렸는지 생각나지 않는다. 아무래도 먹기 싫어져 버려버린 것 같기도 하다.


 이것이 즉 사랑(戀)은 찬스에 의하는 것이 아니다, 하룻밤 사이에 ‘묘한 인연’이나 ‘뜻밖의 일’이나 ‘어쩌다가’ 라는 일들이 세 번도 네 번도 겹쳐도, 어떤 완고한 의지 때문에 도무지 연애가 성립되지 않았던 좋은 예다. 정말 그저 ‘뜻밖의 일’로 연애가 성립된다면, 이는 실로 외설적인 세상이 되고 말 것이다. 연애는 의지에 의해야만 한다. 연애찬스설은 음란함에 가깝다. 그렇다면 또 하나의, 아무런 찬스도 없었는데도 10년간 사랑(戀)을 했었다는 경험은 어떤 것이었는지 독자께서 묻는다면 나는 다음과 같이 대답할 것이다. 그건 짝사랑이라는 것으로서, 그리하여 짝사랑이야 말로 항상 사랑(戀)에 있어서 최고의 모습인 것이다.


 교훈. 연애만이 아니라 인생 모두 찬스에 의존하려는 것은 천한 짓이다.

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Posted by 문학관 관리인 위어조자(謂語助者)