'1941'에 해당되는 글 4건

  1. 2018.04.30 용모 - 일본어
  2. 2018.04.30 누구 - 일본어
  3. 2018.04.30 용모 - 한국어
  4. 2018.04.30 누구 - 한국어

용모(容貌 :ようぼう)

다자이 오사무(太宰 治) (1941)

일본어 원문


 私の顔は、このごろまた、ひとまわり大きくなったようである。もとから、小さい顔ではなかったが、このごろまた、ひとまわり大きくなった。美男子というものは、顔が小さくきちんとまとまっているものである。顔の非常に大きい美男子というのは、あまり実例が無いように思われる。想像する事も、むずかしい。顔の大きい人は、すべてを素直にあきらめて、「立派」あるいは「荘厳」あるいは「盛観」という事を心掛けるより他に仕様がないようである。浜口雄幸氏は、非常に顔の大きい人であった。やはり美男子ではなかった。けれども、盛観であった。荘厳でさえあった。容貌に就(つ)いては、ひそかに修養した事もあったであろうと思われる。私も、こうなれば、浜口氏になるように修養するより他は無いと思っている。

 顔が大きくなると、よっぽど気をつけなければ、人に傲慢(ごうまん)と誤解される。大きいつらをしやがって、いったい、なんだと思っているんだ等と、不慮の攻撃を受ける事もあるものである。先日、私は新宿の或る店へはいって、ひとりでビイルを飲んでいたら、女の子が呼びもしないのに傍へ寄って来て、

「あんたは、屋根裏の哲人みたいだね。ばかに偉そうにしているが、女には、もてませんね。きざに、芸術家気取りをしたって、だめだよ。夢を捨てる事だね。歌わざる詩人かね。よう! ようだ! あんたは偉いよ。こんなところへ来るにはね、まず歯医者にひとつき通ってから、おいでなさいだ。」と、ひどい事を言った。私の歯は、ぼろぼろに欠けているのである。私は返事に窮して、お勘定をたのんだ。さすがに、それから五、六日、外出したくなかった。静かに家で読書した。

 鼻が赤くならなければいいが、とも思っている。

'다자이 오사무 > 용모' 카테고리의 다른 글

용모 - 일본어  (0) 2018.04.30
용모 - 한국어  (0) 2018.04.30
Posted by 문학관 관리인 위어조자(謂語助者)

누구(誰:だれ)

다자이 오사무(太宰 治) (1941)


 イエス其(そ)の弟子(でし)たちとピリポ・カイザリヤの村々に出(い)でゆき、途(みち)にて弟子たちに問ひて言ひたまふ「人々は我(われ)を誰と言ふか」答へて言ふ「バプテスマのヨハネ、或人(あるひと)はエリヤ、或人は預言者の一人」また問ひ給(たま)ふ「なんぢらは我を誰と言ふか」ペテロ答へて言ふ「なんぢはキリスト、神の子なり」(マルコ八章二七)

 たいへん危いところである。イエスは其の苦悩の果に、自己を見失い、不安のあまり無智文盲(むちもんもう)の弟子たちに向い「私は誰です」という異状な質問を発しているのである。無智文盲の弟子たちの答一つに頼ろうとしているのである。けれども、ペテロは信じていた。愚直に信じていた。イエスが神の子である事を信じていた。だから平気で答えた。イエスは、弟子に教えられ、いよいよ深く御自身の宿命を知った。

 二十世紀のばかな作家の身の上に於いても、これに似た思い出があるのだ。けれども、結果はまるで違っている。

 かれ、秋の一夜、学生たちと井(い)の頭(かしら)公園に出でゆき、途にて学生たちに問いて言いたまう「人々は我を誰と言うか」答えて言う「にせもの。或人は、嘘つき。また或人は、おっちょこちょい。或人は、酒乱者の一人」また問い給う「なんじらは我を誰と言うか」ひとりの落第生答えて言う「なんじはサタン、悪の子なり」かれ驚きたまい「さらば、これにて別れん」

 私は学生たちと別れて家に帰り、ひどい事を言いやがる、と心中はなはだ穏かでなかった。けれども私には、かの落第生の恐るべき言葉を全く否定し去る事も出来なかった。その時期に於いて私は、自分を完全に見失っていたのだ。自分が誰だかわからなかった。何が何やら、まるでわからなくなってしまっていたのである。仕事をして、お金がはいると、遊ぶ。お金がなくなると、また仕事をして、すこしお金がはいると、遊ぶ。そんな事を繰り返して一夜ふと考えて、慄然(りつぜん)とするのだ。いったい私は、自分をなんだと思っているのか。之(これ)は、てんで人間の生活じゃない。私には、家庭さえ無い。三鷹(みたか)の此(こ)の小さい家は、私の仕事場である。ここに暫くとじこもって一つの仕事が出来あがると私は、そそくさと三鷹を引き上げる。逃げ出すのである。旅に出る。けれども、旅に出たって、私の家はどこにも無い。あちこちうろついて、そうしていつも三鷹の事ばかり考えている。三鷹に帰ると、またすぐ旅の空をあこがれる。仕事場は、窮屈である。けれども、旅も心細い。私はうろついてばかりいる。いったいどうなる事だろう。私は人間でないようだ。

「ひでえ事を言いやがる。」私は寝ころんで新聞をひろげて見ていたが、どうにも、いまいましいので、隣室で縫物をしている家の者に聞えるようにわざと大きい声で言ってみた。「ひでえ野郎だ。」

「なんですか。」家の者はつられた。「今夜は、お帰りが早いようですね。」

「早いさ。もう、あんな奴らとは附き合う事が出来ねえ。ひでえ事を言いやがる。伊村の奴がね、僕の事をサタンだなんて言いやがるんだ。なんだい、あいつは、もう二年もつづけて落第しているくせに。僕の事なんか言えた義理じゃないんだ。失敬だよ。」よそで殴られて、家へ帰って告げ口している弱虫の子供に似ているところがある。

「あなたが甘やかしてばかりいるからよ。」家の者は、たのしそうな口調で言った。「あなたはいつでも皆さんを甘やかして、いけなくしてしまうのです。」

「そうか。」意外な忠告である。「つまらん事を言ってはいけない。甘やかしているように見えるだろうが、僕には、ちゃんとした考えがあって、やっている事なんだ。そんな意見をお前から聞こうとは思わなかった。お前も、やっぱり僕をサタンだなんて思っているんじゃないのかね。」

「さあ、」ひっそりとなった。まじめに考えているようである。しばらく経って、「あなたはね、」

「ああ言ってくれ。なんでも言ってくれ。考えたとおりを言ってくれ。」私は畳の上に、ほとんど大の字にちかい形で寝ころがっていた。

「不精者よ。それだけは、たしかよ。」

「そうか。」あまり、よくなかった。けれどもサタンよりは、少しましなようである。「サタンでは無いわけだね。」

「でも、不精も程度が過ぎると悪魔みたいに見えて来ますよ。」

 或る神学者の説に依(よ)ると、サタンの正体は天使であって、天使が堕落するとサタンというものになるのだという事であるが、なんだか話が、うますぎる。サタンと天使が同族であるというような事は、危険思想である。私には、サタンがそんな可愛らしい河童(かっぱ)みたいなものだとは、どうしても考えられない。

 サタンは、神と戦っても、なかなか負けぬくらいの剛猛な大魔王である。私がサタンだなんて、伊村君も馬鹿な事を言ったものである。けれども伊村君からそう言われて、それから一箇月間くらいは、やっぱり何だか気になって、私はサタンに就(つ)いての諸家の説を、いろいろ調べてみた。私が決してサタンでないという反証をはっきり掴(つか)んで置きたかったのである。

 サタンは普通、悪魔と訳されているが、ヘブライ語のサーターン、また、アラミ語のサーターン、サーターナーから起っているのだそうである。私は、ヘブライ語、アラミ語はおろか、英語さえ満足に読めない程の不勉強家であるから、こんな学術的な事を言うのは甚(はなは)だてれくさいのであるが、ギリシャ語では、デイヤボロスというのだそうだ。サーターンの原意は、はっきりしないが、たぶん「密告者」「反抗者」らしいという事だ。デイヤボロスは、そのギリシャ訳というわけである。どうも、辞書を引いてたったいま知ったような事を、自分の知識みたいにして得々として語るというのは、心苦しい事である。いやになる。けれども私は、自分がサタンでないという事を実証する為には、いやでも、もう少し言わなければならぬ。要するにサタンという言葉の最初の意味は、神と人との間に水を差し興覚(きょうざ)めさせて両者を離間させる者、というところにあったらしい。もっとも旧約の時代に於(お)いては、サタンは神と対立する強い力としては現われていない。旧約に於いては、サタンは神の一部分でさえあったのである。或る外国の神学者は、旧約以降のサタン思想の進展に就いて、次のように報告している。すなわち、「ユダヤ人は、長くペルシャに住んでいた間に、新らしい宗教組織を知るようになった。ペルシャの人たちは、其名をザラツストラ、或(ある)いはゾロアスターという偉大な教祖の説を信じていた。ザラツストラは、一切の人生を善と悪との間に起る不断の闘争であると考えた。これはユダヤ人にとって全く新しい思想であった。それまで彼等は、エホバと呼ばれた万物の唯一の主だけを認めていた。物事が悪く行ったり戦いに敗れたり病気にかかったりすると、彼等はきまって、こういう不幸は何もかも自分たちの民族の信仰の不足のせいであると思い込んでいたのだ。ただ、エホバのみを恐れた。罪が悪霊の単独の誘惑の結果であるという考えは、嘗(かつ)て彼等に起った事が無かったのである。エデンの園の蛇でさえ彼等の眼には、勝手に神の命令にそむいたアダムやエバより悪くはなかったのだ。けれども、ザラツストラの教義の影響を受けて、ユダヤ人も今はエホバに依って完成せられた一切の善を、くつがえそうとしているもう一つの霊の存在を信じ始めた。

 彼等はそれをエホバの敵、すなわち、サタンと名づけた。」というのであるが、簡明の説である。そろそろサタンは、剛猛の霊として登場の身仕度をはじめた。そうして新約の時代に到って、サタンは堂々、神と対立し、縦横無尽に荒れ狂うのである。サタンは新約聖書の各頁に於いて、次のような、種々さまざまの名前で呼ばれている。二つ名のある、というのが日本の歌舞伎では悪党を形容する言葉になっているようだが、サタンは、二つや三つどころではない。デイアボロス、ベリアル、ベルゼブル、悪鬼の首(かしら)、この世の君、この世の神、訴うるもの、試むる者、悪しき者、人殺、虚偽の父、亡す者、敵、大なる竜、古き蛇、等である。以下は日本に於ける唯一の信ずべき神学者、塚本虎二氏の説であるが、「名称に依っても、ほぼ推察できるように、新約のサタンは或る意味に於いて神と対立している。即ち一つの王国をもって之(これ)を支配し、神と同じく召使たちをもっている。悪鬼どもが彼の手下である。その国が何処(どこ)にあるかは明瞭でない。天と地との中間(エペソ二・二)のようでもあり、天の処(ところ)(同六・十二)という場所か、または、地の底(黙示九・十一、二〇・一以下)らしくもある。とにかく彼は此の地上を支配し、出来る限りの悪を人に加えようとしている。彼は人を支配し、人は生れながらにして彼の権力の下にある。この故に『この世の君』であり、『この世の神』であって、彼は国々の凡(すべ)ての権威と栄華とをもっている。」

 ここに於いて、かの落第生伊村君の説は、完膚(かんぷ)無(な)き迄(まで)に論破せられたわけである。伊村説は、徹頭徹尾誤謬(ごびゅう)であったという事が証明せられた。ウソであったのである。私は、サタンでなかったのである。へんな言いかたであるが、私は、サタンほど偉くはない。この世の君であり、この世の神であって、彼は国々の凡ての権威と栄華とをもっているのだそうであるが、とんでも無い事だ。私は、三鷹の薄汚いおでんやに於いても軽蔑せられ、権威どころか、おでんやの女中さんに叱られてまごまごしている。私は、サタンほどの大物でなかった。

 ほっと安堵(あんど)の吐息をもらした途端に、またもや別の変な不安が湧いて出た。なぜ伊村君は、私をサタンだなんて言ったのだろう。まさか私がたいへん善人であるという事を言おうとして、「あなたはサタンだ」なんて言い出したわけではなかろう。悪い人だという事を言おうとしたのに違いない。けれども私は、絶対にサタンでない。この世の権威も栄華も持っていない。伊村君は言い違いしたのだ。かれは落第生で、不勉強家であるから、サタンという言葉の真意を知らず、ただ、わるい人という意味でその言葉を使ったのに違いない。私は、わるい人であろうか、それを、きっぱり否定できるほど私には自信が無かった。サタンでは無くとも、その手下に悪鬼というものもあった筈だ。伊村君は、私を、その召使の悪鬼だと言おうとして、ものを知らぬ悲しさ、サタンだと言ってしまったのかも知れない。聖書辞典に拠(よ)ると、「悪鬼とは、サタンに追従(ついしょう)して共に堕落(おち)し霊物(もの)にして、人を怨(うら)み之を汚さんとする心つよく、其数多し」とある。甚(はなは)だ、いやらしいものである。わが名はレギオン、我ら多きが故なりなどと嘯(うそぶ)いて、キリストに叱られ、あわてて二千匹の豚の群に乗りうつり転げる如く遁走(とんそう)し、崖から落ちて海に溺れたのも、こいつらである。だらしの無い奴である。どうも似ている。似ているようだ。サタンにお追従を言うところなぞ、そっくりじゃないか。私の不安は極点にまで達した。私は自分の三十三年の生涯を、こまかに調べた。残念ながら、あるのだ。サタンにへつらっていた一時期が、あるのだ。それに思い当った時、私はいたたまらず、或る先輩のお宅へ駈けつけた。

「へんな事を言うようですけど、僕が五、六年前に、あなたへ借金申込みの手紙を差し上げた事があった筈ですが、あの手紙いまでもお持ちでしょうか。」

 先輩は即座に答えた。

「持っている。」私の顔を、まっすぐに見て、笑った。「そろそろ、あんな手紙が気になって来たらしいね。僕は、君がお金持になったら、あの手紙を君のところへ持って行って恐喝(きょうかつ)しようと思っていた。ひどい手紙だぜ。ウソばっかり書いていた。」

「知っていますよ。そのウソが、どの程度に巧妙なウソか、それを調べてみたくなったのです。ちょっと見せて下さい。ちょっとでいいんです。大丈夫。鬼の腕みたいに持ち逃げしません。ちょっと見たら、すぐ返しますから。」

 先輩は笑いながら手文庫を持ち出し、しばらく捜して一通、私に手渡した。

「恐喝は冗談だが。これからは気を附け給え。」

「わかっています。」

 以下は、その手紙の全文である。

 ――○○兄。生涯にいちどのおねがいがございます。八方手をつくしたのですが、よい方法がなく、五六回、巻紙を出したり、ひっこめたりして、やっと書きます。この辺の気持ちお察し下さい。今月末まで必ず必ずお返しできるゆえ、××家あたりから二十円、やむを得ずば十円、借りて下さるまいか? 兄には、決してごめいわくをおかけしません。「太宰がちょっとした失敗をして、困っているから、」と申して借りて下さい。三月末には必ずお返しできます。お金、送るなり、又、兄御自身お遊びがてら御持参くだされたら、よろこび、これに過ぎたるは、ございません。図々(ずうずう)しい、わがままだ、勝手だ、なまいきだ、だらしない、いかなる叱正(しっせい)をも甘受いたす覚悟です。只今、仕事をして居ります。この仕事ができれば、お金がはいります。一日早ければ一日早いだけ助かります。二十日に要るのですけれど。おそくだと、私のほうでも都合つくのですが。万事御了察のうえ、御願い申しあげます。何事も申し上げる力がございません。委細は拝眉(はいび)の日に。三月十九日。治拝。」

 意外な事には、此の手紙のところどころに、先輩の朱筆の評が書き込まれていた。括弧(かっこ)の中が、その先輩の評である。

 ――○○兄。生涯にいちどの(人間のいかなる行為も、生涯にいちどきりのもの也)おねがいがございます。八方手をつくしたのですが(まず、三四人にも出したか)よい方法がなく、五六回、巻紙を出したり、ひっこめたりして(この辺は真実ならん)やっと書きます。この辺の気持ちお察し下さい(察しはつくが、すこし変である)今月末までに必ず必ずお返しできるゆえ、××家あたり(あたりとは、おかしき言葉なり)から二十円、やむを得ずば十円、借りて下さるまいか? 兄には、決してごめいわくをおかけしません(この辺は真実ならんも、また、あてにすべからず)「太宰がちょっとした失敗をして、困っているから、」と申して(申してとは、あやしき言葉なり、無礼なり)借りて下さい。三月末には必ずお返しできます。お金、送るなり、又、兄御自身お遊びがてら御持参くだされたら(かれ自身は更に動く気なきものの如し、かさねて無礼なり)よろこび(よろこびとは、真らしきも、かれも落ちたるものなり)これに過ぎたるは、ございません。図々しい、わがままだ、勝手だ、なまいきだ、だらしない、いかなる叱正をも甘受いたす覚悟です(覚悟だけはいい。ちゃんと自分のことは知っている。けれども、知っているだけなり)只今、仕事をして居ります。この仕事ができれば(この辺同情す)お金がはいります。一日早ければ一日早いだけ助かります。二十日に要るのですけれど(日数に於いて掛値(かけね)あるが如し、注意を要す)おそくだと、私のほうでも都合つくのですが(虚飾のみ。人を愚弄(ぐろう)すること甚しきものあり)万事御了察のうえ、お願い申しあげます。何事も申しあげる力がございません(新派悲劇のせりふの如し、人を喰ってる)委細は拝眉の日に。三月十九日。治拝。(借金の手紙として全く拙劣を極むるものと認む。要するに、微塵(みじん)も誠意と認むるものなし。みなウソ文章なり)

「これはひどいですねえ。」私は思わず嘆声を発した。

「ひどいだろう? 呆(あき)れたろう。」

「いいえ、あなたの朱筆のほうがひどいですよ。僕の文章は、思っていた程でも無かった。狡智(こうち)の極を縦横に駆使した手紙のような気がしていたのですが、いま読んでみて案外まともなので拍子抜けがしたくらいです。だいいち、あなたにこんなに看破されて、こんな、こんな、」まぬけた悪鬼なんてあるもんじゃない、と言おうとしたのだが言えなかった。どこかで、まだ私がこの先輩をだましているのかも知れないと思ったからである。私が言い澱(よど)んでいると、先輩は、どれどれと言って私の手から巻紙を取り上げて、

「むかしの事だから、どんな文句か忘れてしまった。」と呟(つぶや)いて読んでいるうちに、噴き出してしまった。「君も馬鹿だねえ。」と言った。

 馬鹿。この言葉に依って私は救われた。私は、サタンではなかった。悪鬼でもなかった。馬鹿であった。バカというものであった。考えてみると、私の悪事は、たいてい片っ端から皆に見破られ、呆れられ笑われて来たようである。どうしても完璧の瞞着(まんちゃく)が出来なかった。しっぽが出ていた。

「僕はね、或る学生からサタンと言われたんです。」私は少しくつろいで事情を打ち明けた。「いまいましくて仕様が無いから、いろいろ研究しているのですが、いったい、悪魔だの、悪鬼だのというものが此の世の中に居るんでしょうか。僕には、人がみんな善い弱いものに見えるだけです。人のあやまちを非難する事が出来ないのです。無理もないというような気がするのです。しんから悪い人なんて僕は見た事がない。みんな、似たようなものじゃないんですか?」

「君には悪魔の素質があるから、普通の悪には驚かないのさ。」先輩は平気な顔をして言った。「大悪漢から見れば、この世の人たちは、みんな甘くて弱虫だろうよ。」

 私は再び暗憺(あんたん)たる気持ちになった。これは、いけない。「馬鹿」で救われて、いい気になっていたら、ひどい事になった。

「そうですか。」私は、うらめしかった。「それでは、あなたも、やっぱり私を信用していないのですね。そういうもんかなあ。」

 先輩は笑い出した。

「怒るなよ。君は、すぐ怒るからいけない。君がいま人のあやまちを非難する事が出来ないとか何とか、キリストみたいに立派な事を言うもんだから、ちょっと、厭味を言ってみたんだ。しんから悪い人なんて見た事が無いと君は言うけれども、僕は見た事がある。二、三年前に新聞で読んだ事がある。ポストにマッチの火を投げ入れて、ポストの中の郵便物を燃やして喜んでいた男があった。狂人ではない。目的の無い遊戯なんだ。毎日、毎日、あちこちのポストの中の郵便物を焼いて歩いた。」

「それあ、ひどい。」そいつは、悪魔だ。みじんも同情の余地が無い。しんから悪いやつだ。そんな奴を見つけたら、私だって滅茶滅茶にぶん殴ってやる事が出来る。死刑以上の刑罰を与えよ。そいつは、悪魔だ。それに較べたら、私はやっぱり、ただの「馬鹿」であった。もう之で、解決がついた。私は此の世の悪魔を見た。そいつは、私と全然ちがうものであった。私は悪魔でも悪鬼でもない。ああ、先輩はいい事を知らせてくれた。感謝である、とその日から四、五日間は、胸の内もからりとしていたのであるが、また、いけなかった。つい先日、私は、またもや、悪魔! と呼ばれた。一生、私につきまとう思想であろうか。

 私の小説には、女の読者が絶無であったのだが、ことしの九月以来、或るひとりの女のひとから、毎日のように手紙をもらうようになった。そのひとは病人である。永く入院している様子である。退屈しのぎに日記でも書くような気持ちで、私へ毎日、手紙を書いているのである。だんだん書く事が無くなったと見えて、こんどは私に逢いたいと言いはじめた。病院へ来て下さいと言うのであるが、私は考えた。私は自分の容貌も身なりも、あまり女のひとに見せたくないのである。軽蔑されるにきまっている。ことに、会話の下手くそは、自分ながら呆れている。逢わないほうがよい。私は返辞を保留して置いた。すると今度は、私の家の者へ手紙を寄こした。相手が病人のせいか、家の者も寛大であった。行っておあげなさい、と言うのである。私は、二日も三日も考えた。その女の人は、きっと綺麗な夢を見ているのに違いない。私の赤黒い変な顔を見ると、あまりの事に悶絶(もんぜつ)するかも知れない。悶絶しないまでも、病勢が亢進(こうしん)するのは、わかり切った事だ。できれば私は、マスクでも掛けて逢いたかった。

 女のひとからは次々と手紙が来る。正直に言えば、私はいつのまにか、その人に愛情を感じていた。とうとう先日、私は一ばんいい着物を着て、病院をおとずれた。死ぬる程の緊張であった。病室の戸口に立って、お大事になさい、と一こと言って、あかるく笑って、そうして直ぐに別れよう。それが一ばん綺麗な印象を与えるだろう。私は、そのとおりに実行した。病室には菊の花が三つ。女のひとは、おやと思うほど美しかった。青いタオルの寝巻に、銘仙(めいせん)の羽織(はおり)をひっかけて、ベッドに腰かけて笑っていた。病人の感じは少しも無かった。

「お大事に。」と言って、精一ぱい私も美しく笑ったつもりだ。これでよし、永くまごついていると、相手を無慙(むざん)に傷つける。私は素早く別れたのである。帰る途々、つまらない思いであった。相手の夢をいたわるという事は、淋しい事だと思った。

 あくる日、手紙が来たのである。

「生れて、二十三年になりますけれども、今日ほどの恥辱を受けた事はございません。私がどんな思いであなたをお待ちしていたか、ご存じでしょうか。あなたは私の顔を見るなり、くるりと背を向けてお帰りになりました。私のまずしい病室と、よごれて醜い病人の姿に幻滅して、閉口してお帰りになりました。あなたは私を雑巾(ぞうきん)みたいに軽蔑なさった。(中略)あなたは、悪魔です。」

 後日談は無い。



'다자이 오사무 > 누구' 카테고리의 다른 글

누구 - 일본어  (0) 2018.04.30
누구 - 한국어  (0) 2018.04.30
Posted by 문학관 관리인 위어조자(謂語助者)

용모(容貌 )

다자이 오사무(太宰 治) (1941)

번역 : 홍성필


내 얼굴은 요즘 또다시 한층 커진 것 같다. 본래부터 작은 얼굴은 아니었으나 요즘 들어 더 커졌다. 미남이란 작고 아담한 얼굴을 말한다. 얼굴이 매우 큰 미남이란 그리 흔하지 않다. 상상하기도 힘들다. 얼굴이 큰 사람은 모든 것을 포기하고 그저 “대단”, “장엄”, 또는 “훌륭”해지려고 노력하는 수밖에 없는 듯하다. 하마구치 오사치 (浜口雄幸) 씨는 얼굴이 매우 큰 사람이었다. 역시 미남은 아니었다. 그러나 훌륭했다. 장엄하기까지 했다. 용모에 대해서는 남몰래 수양한 적도 있는 것처럼 보인다. 나도 이렇게 되면 하마구치 씨처럼 되도록 수양할 수밖에 없다고 생각한다.

얼굴이 커지면 여간 조심하지 않으면 남들에게 거만하다고 오해를 받는다. 교만한 인상이다, 무슨 불만이 있는거야, 라며 불시에 공격을 받기도 한다. 얼마 전에 나는 신주쿠(新宿)에 있는 어느 술집에 들어가 혼자 술을 마시고 있었더니 어떤 여자가 부르지도 않았는데 곁에 와서는,

“당신은 다락방에 사는 철학자 같으시군. 꽤나 대단한 척 하고 있지만 여자들한테 인기는 없을 거야. 예술가인척 해도 안 먹힌다고. 꿈을 버려. 노래하지 않는 시인이야? 그래! 그렇지! 당신은 훌륭해. 이런 곳에 오려면 우선 한 달 동안 치과에 다닌 다음에 오시라고.” 라며 심한 말을 했다. 내 이빨은 앙망이었다. 나는 말문이 막혀 계산을 부탁했다. 과연 그로부터 5, 6일 동안은 외출하기 싫었다. 조용히 집에서 책을 읽었다.

코가 빨개지지 않으면 다행이련만, 하고도 생각한다.


'다자이 오사무 > 용모' 카테고리의 다른 글

용모 - 일본어  (0) 2018.04.30
용모 - 한국어  (0) 2018.04.30
Posted by 문학관 관리인 위어조자(謂語助者)

누구(誰)

다자이 오사무(太宰 治) (1941)

번역 : 홍성필


 예수와 제자들이 가이사랴 빌립보 여러 마을로 나가실쌔 노중에서 제자들에게 물어 가라사대 “사람들이 나를 누구라고 하느냐” 여짜와 가로되 “세례 요한이라 하고 더러는 엘리야, 더러는 선지자 중의 하나라 하나이다” 또 물으시되 “너희는 나를 누구라 하느냐” 베드로가 대답하여 가로되 “주는 그리스도시니이다” (마가복음 8장 27절)


 매우 위태로운 장면이다. 예수는 그 고뇌 끝에 자아를 잃고 너무나도 불안한 나머지 일자무식인 제자들을 향해 “나는 누구냐”라고 하는 이상한 질문을 던지고 있는 것이다. 일자무식인 제자들의 대답에 의지하려는 것이다. 그러나 베드로는 믿고 있었다. 우직하게 믿고 있었다. 예수가 신의 아들이라는 사실을 믿고 있었다. 그래서 태연하게 대답했다. 예수는 제자로부터 그 말을 듣고 점차 깊이 자신의 숙명을 깨달았다.


 20세기, 바보 같은 작가의 신상에 있어서도 이와 비슷한 추억이 있다. 그러나 결과는 전혀 다르다.


 어느 가을날 밤, 그와 학생들이 이노가시라(井の頭) 공원으로 나가실쌔, 노중에서 학생들에게 물어 가라사대 “사람들이 나를 누구라 하느냐” 여짜와 가로되 “가식적인 인간, 더러는 거짓말쟁이, 더러는 경박한 놈, 더러는 술주정뱅이들 중의 하나라 하나이다” 또 물으시되 “너희는 나를 누구라 하느냐” 한 낙제생이 대답하여 가로되 “당신은 사탄, 악마의 자식이니이다.” 그는 놀라 가라사대 “잘 가거라. 이만 헤어지리라.”


 나는 학생들과 헤어지고 집으로 돌아와, 정말 심한 말을 지껄인다, 면서 마음이 지극히 편치 않았다. 그러나 내게는 그 낙제생의 끔찍한 말을 완전히 부정할 수 없었다. 그 무렵 나는 자신을 완전히 잃고 있었다. 자신이 누구인지 알 수 없었다. 뭐가 뭔지 전혀 알 수 없는 지경에 빠졌던 것이다. 일을 하고 돈이 들어오면 논다. 돈이 떨어지면 다시 일을 하고, 조금 돈이 들어오면 논다. 그런 일을 되풀이하며, 어느 밤 문득 생각하자 섬뜩했다. 대체 나는 나 스스로를 무엇이라 생각하고 있는가. 이건 도무지 인간의 생활이 아니다. 나에게는 가정조차 없다. 미타카(三鷹)에 있는 이 작은 집은 내 작업장이다. 이곳에 잠시 갇혀있다가 일이 하나 완성되면 서둘러 미타카를 나선다. 도망치는 것이다. 여행을 떠난다. 하지만 여행을 떠난다 해도 내 집은 어디에도 없다. 여기저기 기웃거리다가, 그리고 여느 때처럼 미타카에 대한 생각만 한다. 미타카에 돌아오면 또 금새 여행에서의 푸른 하늘을 그리워한다. 작업장은 답답하다. 그러나 여행도 쓸쓸하다. 나는 어정버정 거리기만 한다. 대체 어떻게 된 일일까. 나는 인간이 아닌 것 같다. “정말 심한 말을 지껄인다.” 나는 누워서 신문을 펼쳐봤지만 아무리 생각해도 분하고 화가 나길래, 옆방에서 뜨개질을 하고 있는 집사람이 들일 정도로 일부러 크게 말해보았다. “나쁜 놈 같으니라구.”


 “무슨 일이에요?” 집사람이 걸려들었다. “오늘밤은 일찍 들어오셨나 보네요.”


 “일찍 들어왔지. 이제 저런 놈들하고는 같이 다닐 수 없어. 괘씸한 말을 지껄이잖아. 이무라(伊村) 이 놈이 말이야 나를 사탄이라는 거야. 뭐야, 그 녀석은 벌써 2년이나 연속 낙제하고 있는 주제에. 나에 대해 그런 소리를 할 수 있는 입장도 아니야. 실수한 거라구.”밖에서 얻어 맞고 집에 들어와 고자질을 하고 있는, 힘없는 어린애를 닮은 구석이 있다.


 “당신이 너무 잘 받아줘서 그래요.” 집사람은 즐겁다는 투로 말했다. “당신은 항상 사람들을 잘 받아주니까 나빠지는 거예요.”


 “그런가” 의외의 충고다. “이상한 소릴 하지 마. 받아주는 것 같지만 나한테는 나름대로 생각이 있어서 하고 있는 일이라구. 그런 의견을 너한테서 들을 줄은 몰랐다. 너도 역시 나를 사탄이라 생각하고 있는 게 아닌가.”


 “글쎄.” 조용해졌다. 진지하게 고민하고 있는 것처럼 보인다. 잠시 후, “당신은 말이죠.”


 “그래, 말해봐. 아무 말이라도 좋아. 생각난 그대로를 말해보라구.” 나는 방바닥 위에 거의 큰 대자로 누워있었다.


 “게으름뱅이에요. 그것 만은 확실해요.”


 “그렇군.” 별로 좋지 않았다. 그래도 사탄 보다는 조금 나은 것 같기도 하다. “사탄은 아니라는 소리군.”


 “하지만 게으름도 지나치면 악마처럼 보여져요.”


 어떤 신학자의 학설에 의하면 사탄의 정체는 천사였으며, 천사가 타락하면 사탄이라는 것이 된다고 하나, 왠지 얘기가 너무 지나치다. 사탄과 천사가 동족이라는 소리는 위험사상이다. 내게는 사탄이 그런 귀여운 요괴 같은 것이라고는 도저히 생각되지 않는다.


 사탄은 신과 싸워도 좀처럼 지지 않을 정도로 강한 대마왕이다. 내가 사탄이라니, 이무라 군도 바보 같은 소리를 했다. 그러나 이무라 군으로부터 그런 말을 듣고는, 그로부터 한 달간 정도는 역시 왠지 신경이 쓰여, 나는 사탄에 대해 이런저런 학설을 살펴보았다. 내가 절대 사탄이 아니라는 반증을 명확하게 잡고 싶었던 것이다.


 사탄은 보통 악마라고 번역되지만 히브리어로는 사아타안, 또는 아람어로는 사아타안, 사아타아나에서 비롯되었다고 한다. 나는 히브리어, 아람어는 고사하고 영어조차 제대로 읽지 못하는 학식이므로, 이런 학술적인 말을 하는 건 지극히 쑥스러운 일이나, 헬라어로는 디아볼로스라고 한단다. 사아타안의 본래 뜻은 분명하지 않지만, 아마도 ‘밀고자’, ‘반항자’ 같다는 것이다. 디아볼로스는 그것을 헬라어로 번역한 단어라는 것이다. 아무래도 사전을 펴서 방금 알게 된 것을 자신의 지식처럼 당당하게 말한다는 건 괴롭다. 짜증이 난다. 그러나 나는 내가 사탄이 아니라는 사실을 입증하기 위해 싫어도 조금 더 말을 해야만 한다. 요컨대, 사탄이라는 말의 최초의 의미는 신과 사람 사이를 갈라놓고 둘을 이간시키는 자, 라는 뜻에 있었던 것 같다. 물론 구약시대에 있어서 사탄은 신과 대립하는 강한 힘으로 등장하지는 않는다. 구약에 있어서 사탄은 신의 일부분이기 까지도 했다. 어떤 외국 신학자는 구약 이후의 사탄 사상의 진전에 대해 다음과 같이 보고하고 있다. 즉, “유대인은 긴 세월을 페르시아에 살고 있으면서 새로운 종교조직을 알게 되었다. 페르시아 사람들은 그 이름을 짜라투스트라 또는 조로아스타라고 하는 위대한 교주의 말을 믿고 있었다. 짜라투스트라는 일체의 인생을 선과 악 사이에 일어나는 부단한 투쟁이라고 생각했다. 이는 유대인에게 있어서 전혀 새로운 사상이었다. 그때까지 그들은 여호와라 불리는 만물 유일신만을 인정했었다. 일이 잘못되거나 전쟁에서 지거나 병에 걸리거나 하면 그들은 항상 이런 불행은 모두가 자신들의 민족이, 믿음이 부족하기 때문에 일어난다고 생각했었다. 오로지 여호와만을 두려워했다. 죄가 악령의 단독적인 유혹에서 비롯되는 결과라는 생각은 이전에 그들이 갖지 못했던 사상이다. 에덴동산에 있던 뱀조차 그들의 눈에는 제멋대로 신의 명령을 거역한 아담이나 하와가 더 나쁘다고 생각했던 것이다. 그러나 짜라투스트라의 교리에 의해 영향을 받아, 유대인도 지금은 여호와에 의해 완성된 모든 선(善)을 뒤집으려 하고 있는 또 하나의 영의 존재를 믿기 시작했다.


 그들은 그것을 여호와의 적, 즉 사탄이라고 일컬었다” 는 것인데 간명한 설이다. 서서히 사탄은 막강한 영(靈)으로서 등장할 준비를 시작했다. 그리고 신약시대에 이르러 사탄은 당당히 신과 대립하여 종횡무진으로 미친 듯이 헤치고 다니는 것이다. 사탄은 신약성서 각 권에서 다음과 같은 여러 이름으로 불린다. ‘두 이름을 가진’, 이라는 것이 일본 카부키에서는 악당을 형용하는 말로 쓰이지만 사탄은 두 개나 세 개 정도가 아니다. 디아볼로스, 베리알, 바알세불, 괴수의 우두머리, 세상의 군주, 세상의 신, 고발하는 자, 시험하는 자, 악한 자, 살인하는 자, 허위의 아버지, 망하게 하는 자, 적, 거대한 용, 옛 뱀 등이다. 이하는 일본에 있어서 유일하게 믿을만한 신학자 츠카모토 토라지(塚本虎二) 씨의 학설인데, “명칭에 있어서도 어느 정도 추측할 수 있듯이, 신약에서의 사탄은 어떤 의미에서는 신과 대립하고 있다. 즉, 하나의 왕국을 가지고 있어, 이를 지배하고 신과 마찬가지로 하인들을 가지고 있다. 악귀가 그의 수하들이다. 그 나라가 어디에 있는지 명확하지는 않다. 하늘과 땅 사이에 있는 공중(에베소서 2장 2절)일 수도 있고, 하늘(동 6장 12절)이라는 장소인지, 또는 땅속(요한계시록 9장 11절, 20장 1절 이하)인 것도 같으며, 아무튼 그는 이 지상을 지배하고 가능한 한 악을 사람에게 가하려 하고 있다. 그는 사람을 지배하고 사람은 태어나서부터 그 권력 하에 놓여있다. 그러기에 ‘이 세상의 권세’이며, ‘이 세상의 신’인 것으로서, 그의 나라들 모든 권위와 영화도 함께 한다.”


 이로써 그 낙제생 이무라 군의 학설은 완벽하게 무너진 것이다. 이무라 주장은 철두철미 오류였다는 사실이 입증되었다. 거짓이었던 것이다. 나는 사탄이 아니었다. 이상한 말일지 모르지만 나는 사탄만큼 위대하지 않다. 이 세상의 권세이며 이 세상의 신으로서 그는 나라들의 모든 권위와 영화를 가지고 있다는데 천만의 말씀이다. 나는 미타카에 있는 지저분한 오뎅집으로부터 멸시 당하고, 권위는 고사하고 오뎅집 아주머니한테서 혼나면서 어쩔 줄을 몰라 한다. 나는 사탄만큼 거물이 아니었다. 


 안도의 한숨을 내쉬는 순간 또다시 다른 묘한 불안감이 떠올랐다. 왜 이무라 군은 나를 사탄이라고 말했을까. 설마 내가 대단히 착한 사람이라고 하려다 “당신은 사탄이다” 라고 말한 건 이니겠지. 분명 나쁜 사람이라고 말하려 했을 것이다. 하지만 절대로 사탄이 아니다. 이 세상의 권위도 영화도 가지고 있지 않다. 이무라 군은 잘못 말한 것이다. 그는 낙제생이며 공부도 부족하므로 사탄이라는 말의 진의를 모르고, 그저 나쁜 사람이라는 뜻으로 그 말을 썼음이 틀림없다. 나는 나쁜 사람일까. 그것을 완벽하게 부정할 수 있을 정도의 자신감이 내게는 없었다. 사탄이 아니라 해도 그 수하에 악귀라는 것들도 있다고 했다. 이무라 군은 나를 그 부하인 악귀라고 말하려 하다가, 알지 못하는 자의 서러움, 사탄이라고 말해버렸는지도 모른다. 성경사전에 의하면 “악귀란 사탄을 추종하고 함께 타락한 영물로서, 사람을 저주하고 이를 더럽히려는 마음이 강하며 그 수가 많다.” 고 한다. 매우 기분 나쁜 것들이다. 내 이름은 군대니 우리가 많음이니이다 하고 소리치며 그리스도에게 혼이 나서 서둘러 2천 마리의 돼지 떼한테 들어가 비탈로 향하여 내리 달라 벼락에서 떨어져 바다로 빠진 바로 그 놈들이다. 한심한 녀석이다. 아무래도 닮았다. 비슷한 것 같다. 사탄에게 추종한다는 점만 보아도 꼭 닮았지 않았나. 내 불안감은 극에 달했다. 나는 자신이 살아온 33년 동안의 생애를 자세히 살펴보았다. 안타깝게도 있었던 것이다. 사탄에게 아첨했던 시기가 있었던 것이다. 그 생각이 든 순간 나는 안절부절 못하여 어느 선배 집으로 달려갔다.


 “이상한 말씀을 드리는 것 같지만, 제가 5, 6년 전에 당신께 돈을 빌려달라는 편지를 드린 적이 있었을 텐데, 그 편지는 지금도 가지고 계신가요.”


 선배는 즉시 대답했다.


 “가지고 있지.” 내 얼굴을 똑바로 보고 웃었다. “서서히 그런 편지가 마음에 걸리기 시작했나 보군. 나는 자네가 부자가 되면 그 편지를 자네한테 가지고 가서 협박하려고 했었다네. 못난 편지였지. 순 거짓말만 적혀 있었잖아.”


 “알고 있습니다. 그것이 어느 정도로 교묘한 거짓인지 그것을 살펴보고 싶었습니다. 잠깐 보여주세요. 잠깐이면 됩니다. 괜찮아요. 귀신처럼 가지고 달아나진 않습니다. 잠깐 보면 금방 돌려드릴 테니까요.”


 선배는 웃으면서 문갑을 꺼내더니 잠시 뒤진 후 한 통을 내게 건네주었다.


 “협박은 농담이지만, 이제부턴 조심하게.”


 “알고 있습니다.”


 이하는 그 편지 전문이다.


--형님. 생애 단 한 번의 부탁이 있습니다. 팔방으로 손을 써보았으나 좋은 방법이 없어, 대여섯 번 편지지를 꺼냈다가 다시 집어넣었다 하다가 이제서야 씁니다. 이런 제 마음을 이해해주십시오. 이달 말까지는 반드시 꼭 돌려드릴 수 있으므로 XX네 정도한테서 20엔, 어려우시다면 10엔이라도 빌려주실 수 없으신지요. 형님께는 절대 폐를 끼치지 않겠습니다. “다자이가 작은 실수를 해서 곤란하게 되었으니까” 라고 말씀 드려 빌려 주십시오. 3월 말에는 반드시 돌려드릴 수 있습니다. 돈을 보내주시던지, 또는 형님께서 놀러 오시는 길에 지참하신다면 더할 나위 없이 기쁠 것입니다. 뻔뻔하다, 제 멋대로다, 건방지다, 한심하다, 어떤 질타도 감수할 각오입니다. 현재 저는 일을 하고 있습니다. 이 일이 끝나면 돈이 들어옵니다. 하루 빠르면 하루 빠른 만큼 도움이 됩니다. 20일에 필요하지만, 그 후라면 저도 손을 쓸 수 있으나 모든 것을 알아본 후에 부탁 드리는 것입니다. 드릴 말씀이 없습니다. 자세히는 만나 뵈었을 때 말씀 드리겠습니다. 3월 19일, 오사무 배상.”


 뜻밖의 일은 그 편지 군데군데에 선배가 붉은 글씨로 서평을 적어 놓았다. 괄호 안이 그 선배의 평이다.


 --형님. 생애 단 한 번의 (인간의 어떠한 행위도 생애 단 한 번의 것이다) 부탁이 있습니다. 팔방으로 손을 써보았으나 (서너 명에게 보냈겠지) 좋은 방법이 없어, 대여섯 번 편지지를 꺼냈다가 다시 집어넣었다 하다가 (이건 사실이 아니리라) 이제서야 씁니다. 이런 제 마음을 이해해주십시오. (이해는 하겠으나 조금 이상하다) 이달 말까지는 반드시 꼭 돌려드릴 수 있으므로 XX네 정도한테서(정도한테라니 이상한 말이다) 20엔, 어려우시다면 10엔이라도 빌려주실 수 없으신지요. 형님께는 절대 폐를 끼치지 않겠습니다. (이도 또한 사실이 아니며 믿음도 안 간다)“다자이가 작은 실수를 해서 곤란하게 되었으니까” 라고 말씀 드려 (말씀 드리다니, 기이한 말이며 무례하다) 빌려 주십시오. 3월 말에는 반드시 돌려드릴 수 있습니다. 돈을 보내주시던지, 또는 형님께서 놀러 오시는 길에 지참하신다면 (자기 자신은 전혀 움직일 마음조차 없다. 더더욱 무례하다) 더할 나위 없이 기쁠 (기쁘다는 것은 사실이겠으나 그 자신도 타락했다) 것입니다. 뻔뻔하다, 제 멋대로다, 건방지다, 한심하다, 어떤 질타도 감수할 각오입니다. (각오만은 좋다. 자기를 제대로 알고 있다.) 현재 저는 일을 하고 있습니다. 이 일이 끝나면(이 부분은 동정이 간다) 돈이 들어옵니다. 하루 빠르면 하루 빠른 만큼 도움이 됩니다. 20일에 필요하지만(날짜에 대해 과장이 있는 듯하다. 주의 요), 그 후라면 저도 손을 쓸 수 있으나 (허식일 뿐. 사람을 우롱하는 것도 분수가 있다) 모든 것을 알아본 후에 부탁 드리는 것입니다. 드릴 말씀이 없습니다. (신파 연극과도 같다. 사람을 얕보고 있다) 자세히는 만나 뵈었을 때 말씀 드리겠습니다. 3월 19일, 오사무 배상. (돈 꿔 달라는 편지로서 졸렬함의 극치라고 본다. 요컨대 성의라는 것이 조금도 안 보인다. 모두 거짓 편지다.)”


 “이거 참 너무하셨군요.” 저도 모르게 탄성이 나왔다.


 “너무하지? 어이가 없지.”


 “아뇨, 선배님께서 쓰신 글이 더 너무하셨어요. 제 글은 생각보단 심하지 않았습니다. 교활함이 종횡무진 하는 편지라고 생각했는데 지금 읽어보니 생각보다 제대로 된 글이기에 흥미를 잃었을 정도입니다. 우선 무엇보다 선배님한테 이렇게 간파 당한, 이런, 이런,” 멍청한 악귀가 어디 있습니까, 라고 말하려 했으나 할 수 없었다. 어딘가에서 또 내가 이 선배를 속이고 있는지도 모른다는 생각이 들었기 때문이다. 내가 말끝을 흐리자 선배는, 어디 보자, 라고 하며 내게서 편지를 집어 들더니,


 “옛날 일이라 어떤 말을 썼는지 잊었어.” 라고 중얼거리며 읽고 있더니 웃음을 터뜨렸다.


 “자네도 참 바보야.” 라고 말했다.


 바보. 이 말에 의해 나는 위로를 받았다. 나는 사탄이 아니었다. 악귀도 아니었다. 바보였다. 바보라는 것이었다. 생각해보면 내가 저지른 나쁜 짓들은 대개 처음부터 남들한테 들키고 어이가 없어하며 놀림을 받아왔던 것 같다. 아무리 해도 완벽하게 속일 수가 없었다. 탄로가 났다.


 “저는요 어떤 학생으로부터 사탄이라는 말을 들었습니다.” 나는 마음을 조금 가라앉히고 사정을 털어놓았다. “너무나도 기분이 나빴기에 여러 가지로 연구를 하고 있는데, 대체 악마다, 악귀다 하는 것이 이 세상에 있는 걸까요. 제게는, 사람이 모두 착하고 나약한 존재로 보일 뿐입니다. 남들의 과오를 비난할 수 없는 것입니다. 그럴 수밖에 없다는 생각이 듭니다. 근본적으로 나쁜 사람이란 저는 본 적이 없습니다. 모두 비슷비슷하지 않나요?”


 “자네한테는 악마의 소질이 있기에 일반적인 악으로는 놀라지 않는 거야.” 선배는 태연한 얼굴로 말했다. “대악당이 보기에 이 세상사람들은 모두 착하고 나약한 존재들이겠지.”


 나는 또다시 암담했다. 이래서는 안 된다. ‘바보’라는 말로 위로를 받았는데, 큰일났다.


 “그렇습니까” 나는 원망스러웠다. “그렇다면 선배님도 역시 저를 믿지 않으시는군요. 그런 걸까요.”


 선배는 웃기 시작했다.


 “화 내지 말게. 자네는 금방 화를 내서 탈이야. 자네가 지금 남들의 과오를 비난할 수 없다 어쩌구 하면서 그리스도 같은 거창한 말을 하길래 잠시 비꼬아본 거라네. 근본적으로 나쁜 사람을 본적이 없다고 자네는 말하지만, 난 본 적이 있어. 2, 3년 전에 신문에서 읽은 적이 있지. 우체통에 성냥불을 집어 던져 넣고서는 우체통 안에 든 우편물을 태워버리며 좋아했던 놈이 있었어. 정신이상자가 아니야. 목적이 나쁜 장난이었지. 매일마다 여기저기 우체통 안에 든 우편물을 태우며 돌아다녔지.”


 “그건 정말 너무했군요.” 그 녀석은 악마다. 조금도 동정의 여지가 없다. 근본적으로 나쁜 놈이다. 그런 놈을 발견하면 나라도 닥치는 대로 후려 팰 수 있다. 사형 이상의 형벌을 내려라. 그 녀석은 악마다. 그것에 비하면 나는 역시 그저 ‘바보’였다. 이제 이걸로 해결됐다. 나는 이 세상에서 악마를 보았다. 그 녀석은 나와 전혀 다른 것이었다. 나는 악마도 악귀도 아니다. 아아, 선배는 좋은 것을 알려주었다. 감사할 따름이다. 그로부터 4, 5일 동안은 가슴 속도 개운했었으나, 또다시 일이 잘 못되었다. 불과 얼마 전, 나는 또다시 악마! 라는 소리를 들었다. 평생 나를 따라다니는 사상일까.


 내 소설에는 여성독자가 전무했었으나, 올해 9월 이후로 어느 여성으로부터 매일같이 편지를 받게 되었다. 그 분은 환자다. 오랫동안 입원하고 있는 듯했다. 심심풀이 삼아 일기라도 쓰는 마음으로 나에게 매일 편지를 쓰고 있는 것이다. 점점 쓸 내용이 떨어지는지 이번에는 나를 만나보고 싶다고 하기 시작했다. 병원으로 와달라고 하는데, 나는 생각했다. 나는 내 용모나 풍채를 별로 여성에게 보이고 싶지 않았다. 분명 멸시당할 것이다. 더구나 말을 제대로 못하는 점에 대해서는 나 자신도 한심하다. 안 만나는 편이 좋다. 나는 답변을 보류해두었다. 그러자 이번에는 내 집사람 앞으로 편지를 보냈다. 상대방이 환자이기 때문인지 집사람도 관대했다. 가 드리세요, 라는 것이다. 나는 이틀, 사흘 동안 고민했다. 그 여성은 분명 아름다운 꿈을 꾸고 있음이 분명하다. 내 검붉은 이상한 얼굴을 보면 놀라 기절할 지도 모른다. 기절까지는 안 하더라도 병세가 악화되는 것은 불을 보듯 뻔했다. 가능하다면 마스크라도 하고 가서 만나고 싶었다.


 여성으로부터 계속 편지가 온다. 솔직히 말하면 나는 어느새 그 분에게 애정을 느끼고 있었다. 결국 며칠 전, 나는 가장 좋은 옷을 입고 병원을 방문했다. 죽을 만큼 긴장했다. 병실 문 앞에서, 빠른 쾌유를 빕니다, 라며 한마디 하고는 밝게 웃으며, 그리고 바로 헤어지자. 그것이 가장 아름다운 인상을 줄 수 있으리라. 나는 그대로 실행했다. 병실에는 국화 꽃이 세 송이. 여성은 놀랄 정도로 미인이었다. 푸른 타올 천으로 만들어진 잠옷에 거칠게 짠 비단 옷감으로 된 겉옷을 걸치고 침대에 걸터앉아 웃고 있었다. 환자라는 느낌이 전혀 안 들었다.


 “빠른 쾌유를 빕니다.” 라고 한 마디 하고는 최선을 다해 나도 아름답게 웃어 보였다. 이제 됐다. 오래 머뭇거리며 서 있으면 상대방에게 무참히 상처를 입힌다. 나는 재빨리 헤어진 것이다. 돌아오는 길은 허탈했다. 상대방의 꿈을 달래준다는 일은 쓸쓸한 일이라고 생각했다.


 다음날 편지가 온 것이다.


 “태어나서 23년이 되지만 오늘만큼 치욕을 받은 적은 없습니다. 제가 어떤 생각으로 당신을 기다리고 있었는지 아시겠습니까. 당신은 제 얼굴을 보자마자 휙 등을 돌리고 가버리셨습니다. 저의 볼품없는 병실과 지저분하고 추한 환자의 모습에 환멸을 느끼고 말없이 돌아가셨습니다. 당신은 저를 걸레처럼 경멸하셨습니다. (중략) 당신은 악마입니다.”


 후일담은 없다.

'다자이 오사무 > 누구' 카테고리의 다른 글

누구 - 일본어  (0) 2018.04.30
누구 - 한국어  (0) 2018.04.30
Posted by 문학관 관리인 위어조자(謂語助者)


티스토리 툴바