누구(誰:だれ) 다자이 오사무(太宰 治) (1941) イエス其(そ)の弟子(でし)たちとピリポ・カイザリヤの村々に出(い)でゆき、途(みち)にて弟子たちに問ひて言ひたまふ「人々は我(われ)を誰と言ふか」答へて言ふ「バプテスマのヨハネ、或人(あるひと)はエリヤ、或人は預言者の一人」また問ひ給(たま)ふ「なんぢらは我を誰と言ふか」ペテロ答へて言ふ「なんぢはキリスト、神の子なり」(マルコ八章二七) たいへん危いところである。イエスは其の苦悩の果に、自己を見失い、不安のあまり無智文盲(むちもんもう)の弟子たちに向い「私は誰です」という異状な質問を発しているのである。無智文盲の弟子たちの答一つに頼ろうとしているのである。けれども、ペテロは信じていた。愚直に信じていた。イエスが神の子である事を信じていた。だから平気で答えた。イエスは、弟子に教えられ、いよいよ深く御自身の宿命を知った。 二十世..